三つの輝石

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詳細年表

網元画家:斎藤巻石
 九十九里浜平野は、わが国でも有数の海岸平野である。九十九里浜における地曳網漁は、戦国末期から江戸初期にかけて次第に発達し、全国でも有数な漁業に発達した。文政12年には南北今泉村に六家、四天木村に五家の地曳網主が存在していた。中でも北今泉村の上代平左衛門、四天木村の斎藤四郎右衛門は突出した網元であった。
 斉藤家の出自は、土気酒井氏の旧臣として仕え、酒井氏滅亡後、四天木村に土着。その後、九十九里地曳網漁業の網元として、天下に知れわたっていた。
 いわし漁の豊業は凄じく、九十九里の浜の土豪網元に巨万の富みをもたらしていった。第一〇代四郎右衛門の次男として寛政10年に誕生した源作(のちの巻石)は、14歳で養子に出る。その後、実家に帰り第一二代四郎右衛門として家督を継ぎ、兄の子の成長をまち28歳にして家督を譲った。
 この頃、九十九里沖合いに異国船が出現。文政8年から弘化3年までの二一年間に八度の接近が確認され、その内の一回は、今泉村沖合いに出現している。
 自由人になった巻石は書画に親しみはじめた。巻石は文雅を愛し、郷土出身の漢学者篠崎司直に学び、多くの儒者、茶人と交遊を深めた。画業は高久靄崖、椿椿山に師事し、その奥義を究めた。
 明治2年には、上総国山辺郡大網宿宮谷の本國寺に宮谷県(現・大網白里町宮谷の本國寺)が置かれ、柴山典が初代宮谷県権知事として赴任した。
 
篆刻家:石井雙石
 維新の激動期も落ち着き始めた明治6年、四天木で石井太郎兵衛の三男として誕生した雙石は、幼名を石松と言った。幼い頃から、書や篆刻に目覚めた雙石は、九十九里きっての大網元斎藤四郎右衛門家と姻戚関係にあったことから、度々同家を訪れ、書画・骨董・美術品に直接触れる機会を得られたことは、後の篆刻界の巨匠を生み出すための下地となった。
 33歳の時、江戸時代以来の篆刻の名門、浜村蔵六に師事し、およそ三〇年の間篆刻を学び続ける。50歳で軍役を離れると、後進の指導・専門家としての研究に専念していった。雙石の作品は文字の美しさもさることながら、鋭い刀の切れ味で、篆刻独特の鉄線のような力強さがよくあらわれていると言われる。その後、技量の優秀さからしだいに、東京大学印・文部省印などの政府関係印など重要な印を次々に依頼された。
 
日本画家:石井林響
 明治17年、石井毅三郎(林響)が誕生した。自然環境豊かな地に生まれ育った林響は鳥や花の絵を描き遊んでいた。やがて大網高等小学校で学び、旧制千葉中学校に進んだ林響は、画家への道を進みはじめた。
 明治27年8月「東洋の眠れる獅子」といわれた中国(清朝)との間で始まった日清戦争は翌年には勝利の内に終結したが、明治37年軍事大国ロシアとの戦争に突入していった。
 この時期、林響は橋本雅邦に師事し、精力的に作品を発表し続け、他を圧する出来映えで受賞を重ね、画壇に石井林響(天風)の名を知らしめていった。
 林響が宮谷に画房を構えたのは、大正15年のことである。こよなく愛した鳥達と自然に抱かれながら、宮谷の地で創作活動に励んだのである。
 昭和に入り昭和恐慌、戦争と、のどかな町にも厳しい時代が襲いかかった。特に太平洋戦争は人々に不安の念をつくらせた。
 戦後、食糧難のため、当町は供出問題で悩まされたが、昭和33年、念願の両総用水が完成、農地整理された水田を潤した。
 昭和47年外房線の電化、複線化がすすみ通勤圏に入った当町は、新しい町づくりが積極的に求められるようになった。
 

出典:大網白里町教育委員会編『町史を彩る巨匠たち』平成12年3月刊行