石井雙石 作品を見る
明治6年4月1日四天木村、石井太郎兵衛の三男として誕生した。幼名を「石松」といい、後に「碩」と改める。
石松が3歳の時「おばあさんが晩年、目を悪くしたため、たばこを吸うたびに、大きな皿の上で葉っぱをねじ込んで、煙管に火をつけておばあさんに渡していたので、自然に吸う様になった」また、5歳の時には「よく、お神酒を買いに行かされたが、帰りには半分程呑んでしまい、隣の鬼島さん方によって井戸水を足して神様へ供えた」などのエピソードが残っている。
石井家は、九十九里浜きっての大網元斎藤四郎右衛門家(斎藤巻石)と姻戚関係にある。(雙石の祖叔母は斎藤巻石の後妻である。)このことから、幼い頃から斎藤家を度々訪ね、書画や骨董品、美術品などに直接触れる機会を得られたことが、後の篆刻界の巨匠を生み出したのかもしれない。このことは、『篆刻指南』の中に「それからは額や掛物を見る毎に、印が目を著いて来る。そこで甲の額からは貞斎の斎字を写して起き、乙の掛物からは藤原恭綱の藤字を摘んで置いて、やがて斎藤なる認印が出来る様になって来た。」と記されている。実際に幼少の頃から細かい事が好きで、小刀は身から離さなかった。珍しいものにあうとすぐ彫り付けた。
四天木学校で四年まで学び、その後、儒者島田順堂の漢字塾遠紹書院で素読を習い、漢文の基礎を身につけた。
14・5歳の頃、父の務めている役場で書記の手伝いとして、帳簿の整理や土地台帳の改編等を行っていた。16歳で上京。22歳で陸軍に入隊し、日清戦争では台湾守備兵として従軍し、翌年には陸軍教導団に志願している。
明治39年、近衛連隊准尉であった34歳の時、日本新聞社主催の篆刻作品展に応募し、二等に当選したことが契機となり、江戸時代以来代々篆刻の名家として知られている第五代浜村蔵六のもとに入門、本格的に篆刻を学ぶ決意をした。
師の早世後、38歳で篆刻研究団体「長思印会」を発足させ、梨岡素岳・太田夢庵らと共に篆刻専門の雑誌「雕蟲」を毎月発行し、昭和18年12月の三四一集をもって休刊となるまでの三三年間、篆刻の研究成果の発表、篆刻の普及に務めた。
明治44年、軍退役後軍属として札幌に勤務し、その傍ら篆刻の研究に没頭する。
大正12年、51歳で軍役を離れると、東京の原宿に居を構え、「不二山坊」(富士山が良く見えることから命名)を営み、後進の指導、専門家としての研究に全力を傾注する雙石は、基本をおろそかにすることなく、学問的にも全く批判の余地のない、正確な字体で作品を仕上げていた。
篆刻の評価は単に文字の美しさだけではなく、材料などの材質の美しさが大切とされ、特に雙石の作品は鋭い刀の切れ味をうかがわせる篆刻独特の力強さが秘められている。
この年の九月東京・神奈川・千葉・埼玉・静岡の一府四県にわたって、突如地上に存在するあらゆる物をくつがえすような大地震が発生。東京・神奈川を中心に大変な被害であったが、幸いにも雙石一家は無事であった。
昭和6年59歳の時、東方書道会の設立に参画し、会の重鎮となる。
昭和20年の東京大空襲により、その蔵書・資料を焼失し、五月の強制疎開のため、郷里の四天木に疎開し、篆刻に精励している。
また、昭和22年東京大学の依頼により「東京大学」「東京大学総長」の印を作成している。
代表作である「一笑百印」は昭和22年に完成したものである。戦後の耐貧生活を送る日々に少しでも笑いをとの願いを込めて「一笑」の二文字のみを竹根・瓜蔕の百個に刻した作品である。
昭和23年、東京(堀切)に住まいを移すと、日展(第五部として書が認められる)に参画し審査員、翌年に参事、三六年には評議員となる。
雙石の篆刻は、技量の優秀さから次第に有名になり、文部省などの政府関係印・最高裁判所印・警視庁印・明治神宮印・千葉県知事印など、重要な印が次々と依頼される。また、雙石は書家としても有名で、国会図書館の門扉の題字を書いたり、多数の優れた作品を残している。
雙石の業績は高く評価され、昭和38年に紫綬褒章を授与され、昭和40年に勲四等旭日小綬章を授与されている。この年、埼玉県東松山市へ居を移している。
明治・大正・昭和の三代にわたり、一世紀を生き抜いた篆刻界の巨匠石井雙石は、昭和46年10月29日、99歳(数え年)でそのエネルギッシュな生涯を閉じた。
九十九里浜の雄大な自然は、時に偉大な人物を我々のまえに送り届けてくれる。雙石が残した業績は、寄せては返す波のおもてに永遠の輝きを放ち続けている。
→石井雙石顕彰碑