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大網白里市/大網白里市デジタル博物館
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大網白里市年表
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大網白里市年表
日本史
町史を彩る巨匠たち
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大網白里市年表
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町史を彩る巨匠たち
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西暦
できごと
できごと
1
慶長11年
1606
幕府により大網・長南・一宮・茂原・本納の五か村が組市として開設される。
2
慶長12年
1607
富田村富田彦兵衛、南玉村で富田堤を築造する。
3
慶長18年
1613
家康の鷹狩りのため、東金御殿や御成街道の普請が始まる。
4
慶長19年
1614
大坂冬の陣。
5
元和元年
1615
大坂夏の陣(豊臣氏滅亡)。
6
元和2年
1616
このころ池田村に将軍鷹狩りの際の休息所が設けられる。
7
元和2年
1616
宮谷檀林開設。
8
寛永4年
1627
三浦監物重勝、不受不施宗派弾圧のため方墳寺を焼き払う。
9
寛永8年
1631
三浦監物重勝の死去により、三浦氏は無嗣子絶家となる。
10
寛永10年
1633
木崎村で寛永の地方直しに伴う分郷が行われる。
11
寛永12年
1635
参勤交代。
12
寛永13年
1636
金谷・山口・養安寺・餅木・大竹の五か村と、大和田村との間で猿橋野をめぐり入会秣場出入が起こる。以後、町域各村でも野論が続発するようになる。
13
寛永14年
1637
上谷新田が開発され新田村となる。
島原の乱。
14
寛永19年
1642
細草檀林開設。
15
寛永20年
1643
田畑永代売買禁止令。
16
慶安2年
1649
幕府、「慶安触書」を布令する。
17
寛文2年
1662
猿橋野秣場出入が再発し、この年に取り決められた約定が、以後明治初年まで慣行として遵守される。
18
寛文4年
1664
幕府、寛文印知を交付。
19
寛文8年
1668
木崎村で田地の永代売りが行われる。
20
延宝元年
1673
分地制限令。
21
延宝5年
1677
小西村に陣屋を置く総州代官関口作左衛門が、子息二人とともに贜罪で切腹させられる。
22
貞享3年
1686
生類憐みの令。
23
元禄3年
1690
四天木村と浜宿村とが塩場頭の帰属をめぐって争う。
24
元禄7年
1694
真行村・名村と、長谷村・小沼村との間で堰をめぐり用水出入が起こる。以後、町域各村で水論が多発するようになる。
25
元禄10年
1697
「農業全書」刊行される。
26
元禄11年
1698
清名幸谷村で元禄の地方直しに伴う分郷が実施され、杉田氏、中川氏、遠山氏の三旗本が分割支配する。
27
元禄16年
1703
房総沖を震源地とする大地震が発生し、関東一円に大きな被害をもたらす。九十九里地域で二三八七人の水死者を出し、うち北今泉村では六三人、四天木村では二四五人を数え、両村内に犠牲者供養の津波塚が一基ずつ建てられる。
28
享保2年
1717
一時中断されていた鷹狩制度が復活し、鷹場組織も旧来の五郷組合を拡大して霞組合が組織される。
29
享保3年
1718
幕府、諸代官に定免制の達を下す。
30
享保10年
1725
八代将軍吉宗、下総国小金原から六方野に至る大原野で鹿狩りを挙行する。その後、歴代将軍主催の鹿狩りが三度行われ、寛政七年の十代将軍家斉の鹿狩りで、町域村々のうち四三か村から一四四八名の勢子人足が動員される。
31
享保13年
1728
木崎村旗本服部知行所において、年貢の検見取りから定免制の切り替えが行われる。
幕府、漁業慣行を調査する。
32
享保20年
1735
星谷村が代官見立新田として開発され、高入れされて新田村となる。このころ各村で新田開発が行われ、この年までに町域二〇か村で三三四町余の原野が新田開発される。
33
享保20年
1735
享保度、金谷・長谷・真行・名・小沼・餅木・小西・池田・南玉・大竹の町域一〇か村が土気町の定助郷となる。
34
元文4年
1739
富田村から粟生野村に至る二〇〇〇間余の用水路の引水をめぐり南横川村・南飯塚村と、北吉田村・粟生野村とで堰論が発生する。
35
元文4年
1739
桂山村で年貢減免を要求して百姓一揆が起こり、傘連判状が作成される。
36
元文4年
1739
行信(日進)、不受不施派の立義を布教した廉で捕えられ、三宅島に遠島される。
37
宝暦2年
1752
稲葉黙斎、清名幸谷へ移住。
38
宝暦7年
1757
稲葉黙斎、三木の荘(清名幸谷)に孤松庵を建て、移り住む。
39
安永9年
1780
佐藤信季、「漁村維持法」を著わす。
40
寛政2年
1790
幕府、麻苧下直売買奨励を命じる。
41
寛政3年
1791
不受不施信仰の内信心が発覚し、幕府から厳罰をうける。
42
寛政4年
1792
ロシア使節ラクスマン、通商を求める。
43
寛政5年
1793
町域村々の全戸数二八一六戸。
44
寛政7年
1795
経田村・仏島村を分給支配する旗本酒井氏が、知行村々へ八五か条からなる「名主勤役帳」を下付する。
45
寛政11年
1799
稲葉黙斎没する。
46
享和3年
1803
このころ、南飯塚村富塚主静が農事に関する「家政行事」を著述し、実子惺斎が天保十二年に表装して一冊にまとめる。
47
文化2年
1805
関東取締出役を置く。
48
文化5年
1808
この年以降、永田村で全村七~八給を一括した「郷五人組帳」が散見されるようになる。
49
文化頃年
1808
このころ、九十九里浜の鰯地引網漁業が大型化し、今泉村上代家や四天木村斎藤家が大規模な漁業経営を行う。
50
文化7年
1810
白河城主・会津城主に房総沿岸の防備を命じる。
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