近江八幡市には、佐々木六角氏の観音寺城、織田信長の安土城、豊臣秀次の八幡山城という時代を代表する城郭址があります。その城下を通る街道により、様々な人々が交流し、数多くの歴史遺産が残される文化のまちです。
また近江商人の故郷の地である八幡町は、町なみの美しさと、まちのそばを通る八幡堀が、観光地としても有名で、年間約300万人もの人が訪れます。
そしてこの町の成立には、織田信長・豊臣秀吉(秀次)・徳川家康がかかわっていて、関係史料も本市所蔵となっています。
現在、日本全国に残る城下町。整然とした街並みは、歴史と郷愁を誘い、観光地になっているところが数多くあります。
その城下町発祥の地は安土であり、その後を継承したのが近江八幡の町です。
天正4年(1576)、安土町とその城下に町を作った織田信長は、城下町で人々が自由に商売できるよう「楽市令」を制定し、近辺を通る商人は必ず安土城下町に立ち寄らなければならないようにしました。
それが、「安土山下町中掟書」です。天正10年(1582)本能寺の変の後、信長の後継となった次男織田信雄(のぶかつ)も安土城下町へ楽市令等を継承する掟書を発給しています(「織田信雄定書」)。
しかし、信長の死後、天下統一の後継を目論む豊臣秀吉は、天正13年(1585)すぐ安土城から近い八幡山に城を築き、安土城下の人びとをその城下町に移転させます。それが、現在八幡町で、秀吉は自身の甥である豊臣秀次に城主を任せます。秀次は、翌年に「安土山下町中掟書」にならった「八幡山下町中掟書」を発給します。楽市令は継承し、新たに作った琵琶湖につながる八幡堀から物流船を必ず立ち寄らせるようにして、より商売がしやすい環境を整えます。
このとき、八幡町に集まった人々がのちの近江商人(地元では八幡商人)になります。
秀次の後、八幡山城主になった京極高次も楽市令を踏襲した掟書(「京極高次定条々」)を出します。
その後、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、即座に八幡町の守ることを誓約した禁制をだします(「徳川家康禁制」)。
このように、信長・秀吉・家康に守られた八幡町は、江戸時代多くの商人を輩出する町に発展していきます。
江戸時代に入り、八幡町は諸役(幕府や領主から課せられる労働負担)免除の特権を得ます。しかし、数多くの労働力を抱えたい領主側は八幡町に諸役を命じようとします。
その時八幡町は「安土山下町中掟書」をはじめとする掟書や禁制をもらっていることを盾に、諸役免除を主張し負担を受けずに済みます。この信長→秀吉(秀次)→家康から認められた諸役免除や、様々な町の権利を1冊にまとめたのが「八幡町記録帳」です。また、先にも述べた通り、八幡町は全国で活躍する多くの商人を輩出しました。町に経済力がつくと、文化や思想が発展していき、著名な文化人が輩出されます。
伴蒿蹊は、そのなかの一人で江戸時代のベストセラー『近世畸人伝(きんせいきじんでん)』の作家です。和歌や国学をたしなみ、たくさんの著作を輩出しています(「閑田文草」、「閑田詠草」、「閑田耕筆」)。特に歌人としては高く評価され、先人の功績を踏まえた作品も作っています(「伴蒿蹊 幡山十景」)。
八幡町出身の産科医水原三折や、蒿蹊とも交流がある僧六如も著作があります(「産育全書」、「六如菴詩鈔」)。
八幡町の商家出身で、幕末に尊皇の志士となった西川吉輔は、その思想に関する書籍を書き写して残しています(「西川吉輔翁自筆皇字沙汰文」)。
近江八幡市内は江戸時代から変わらないところがいくつかあります。ひとつは八幡町の町並です。豊臣秀次に作られた城下町は碁盤目状に整然並んでおり、その町割りは現在も継承されていることから、江戸時代の絵図が現在も十分利用できます(「八幡町絵図1~4」、「近江国蒲生郡八幡町惣絵図」)。市内の町名も、江戸時代の村名をほぼ踏襲しており、その位置関係や地域のつながりをビジュアルに確認できる絵図は様々な学習に利用することができます(「江州蒲生郡地図」、「近江国細見図」)。市内は農村だけでなく、街道筋や港町など地域経済・流通の拠点が八幡町以外にもあったことが、ビジュアルな史料である引札からもうかがえます。
また、近江八幡市南部を横断する江戸時代の五街道のひとつ中山道は、現在の主要道路国道8号線と合流・交差しながら、現在も地域の歴史をつないでいます。「中山道武佐宿絵図」では、武佐宿と八幡町や常楽寺村といった湊町や、周辺の村々とのつながりを見ることができます。
中山道66番目の宿場町武佐宿は、江戸時代以前から京都と伊勢を結ぶ道の交差地点として、重要な場所でした。都市化が進むなか、往時の風情を残す建物が散見できます。「駅中私図」では、宿場町であった時代の町割りや本陣の位置等が確認できます。
武佐宿から東に進むと、街道沿いには古からの名勝旧跡が現れます。東老蘇には万葉集にも読まれた老蘇の森や奥石神社があり、観音寺城の城下、観音正寺の門前町である石寺へと続きます(「東老蘇村絵図」)。