大阪狭山市立図書館/築造1400年の狭山池

狭山池は大阪狭山市の中央に位置する、日本最古のかんがい用の溜池です。616年の築造以降、狭山池は天平2年(731)の行基による改修や、建仁2年(1202)の重源による改修、慶長13年(1608)の片桐且元による改修などを経て、現在もなおかんがい施設として機能しています。近年行われた平成の改修に伴う発掘調査では『重源狭山池改修碑』の発見をはじめ、数多くの狭山池改修に関する成果が得られました。

狭山池惣絵図 享保7年(1722)

狭山池絵図

1. 河州丹南郡狭山池絵図 享保5年(1720)

南を上にして、狭山池を南限、宝永元年(1704)に付け替えられた新大和川を北限として描かれる。狭山池と新大和川の間の流路は省略されているが、村々の名前と狭山藩陣屋、狭山池の樋を管理する樋役人が住む東西の新宿など狭山池周辺の様相が詳しく書き込まれている。江戸時代、狭山池は幕府が支配していたが、この絵図が作成される前年の享保4年(1719)に狭山藩5代藩主北条氏朝が狭山池と東西の新宿の支配を幕府に願い出ている。この絵図は、これに伴って作成された絵図の可能性がある。


2. 狭山池惣絵図 享保7年(1722)

南を上にして、狭山池周辺の様相が描かれる。享保6年(1721)、狭山藩は幕府から狭山池の支配を許され、寛延元年(1748)に至るまで狭山藩によって狭山池支配が行われた。本絵図は、これに伴って狭山藩から江戸幕府勘定書に提出したものと推定されている。
 本絵図の特徴として、狭山藩陣屋の中の建物が描かれる点、狭山池南側の流入口付近に新田開発の様子がオレンジ色で表現されている点の2点があげられる。特に陣屋内部の様子が絵図に描かれているのは珍しく、狭山藩が狭山池の支配を許されたこととの関係が推測される。

重源狭山池改修碑

鎌倉時代の建仁2年(1202)に狭山池の改修を行った重源が作成した記念碑。狭山池の平成の改修に伴う発掘調査で発見された。和泉砂岩に銘文が刻まれ、一部に剥離があるものの、全体として保存状態がよく土に覆われていた時間が長かったと推測されている。
 銘文は、奈良時代に狭山池の改修を行った行基の事績にふれた後、重源による改修が摂津・河内・和泉の三か国の人民の誘いで行われたことなど工事の概要と参加した僧・工人の名前が記載される。原品は国指定重要文化財に指定されている。

※高精細画像では、スライダーを動かすことで翻刻を重ねて見られます。

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