|
青春ノート
|
|
加藤が1937年から1942年5月にかけて、すなわち17歳から22歳にかけて書き綴った8冊の冊子型ノートがある。われわれはこれを「青春ノート」と名づけた。「青春ノート」には、短編小説、詩歌、評論、随想、日記、警句などが綴られる。加藤が思索したことが記されるが、そのいくつかはのちの加藤の著作に発展継承されていく。たとえば「一九四一年十二月八日」という表題の日記がある。そこには太平洋戦争が始まった日の大学内の様子や、教授陣の態度や、加藤が考え感じたことが述べられており、これは加藤を知る上で重要であるばかりではなく、歴史的な資料としても貴重である。
|
|
JOURNAL INTIME
|
|
《Journal Intime 1948-1949》および《Journal Intime 1950-1951》は、1948年から1949年、そして1950年から1951年にかけての公私にわたる出来事が綴られた日記である。加藤周一が、戦後初期、作家として旺盛な執筆活動を展開しはじめる時期からフランスに留学する直前までの時期に当たる。加藤の人生の重要な転機となった時期であり、そのきっかけとなった母ヲリ子の逝去に至る日々が描かれ、ヲリ子の「遺言」も付される。また、三島由紀夫、竹内好、中野重治ら、当時加藤と交流があった文学者たちにも言及される。このころ加藤が多忙をきわめたため、途中から妻綾子も日記を綴った。しかし、綾子の書いた部分は綾子の御遺族の御意向により割愛されている。
|
|
〔詩作ノート〕
|
|
1951年11月から55年1月までフランスに留学するが、加藤はフランス国内だけではなく、スイス、イタリア、ドイツ、イギリス、オランダなどを旅する。ルネサンス絵画を観るためにイタリアに行ったのは1952年秋のことである。フィレンツェでのちに結婚することとなるヒルダ・シュタインメッツと出会い、ヒルダに愛を感じる。加藤は女性に愛を感じたとき詩を詠むことが多く、本ノート(縦17センチ、横11センチ)には、ヒルダへの愛が詠まれた詩や、ヒルダへの愛をきっかけとして訪れた地に対する覚書が綴られる。ノートに表題は付けられていないが、加藤文庫ではこれを「詩作ノート」と名づけた。書かれた年代は1952年から54年にかけてだろう。ヒルダへの愛の喜びだけではなく、愛の苦しみや愛の悩みも詠まれる。
|
|
Notes on Arts
|
|
本ノートは1960年代中頃に採られたノートであり、《Notes on Arts》と英語表記されるが、主題は日本美術史に関するノートである。加藤の日本美術史研究は1960年代に本格的に始まり、本ノートは日本美術史研究を進める過程で採られた。本ノートには加藤が見て歩いた仏像彫刻や源氏物語絵巻についての記述があり、加藤自ら描いた図も含まれる。このノートから「仏像の様式」(初出『芸術論集』1967)や「『源氏物語絵巻』について」(初出『東京新聞』1965)や「日本の美学」(初出『世界』1967)が著わされる。この三つの論考は、加藤の日本美術史研究にとっては大きな意味をもち、これによって日本美術史研究の基本的な枠組みをつかんだ。
|
|
狂雲集註
|
|
一休は室町時代の禅僧であり、名は宗純といい、狂雲子とも号した。われわれが知るのは「頓知の一休」であり、「高僧一休」であり、そして「破戒僧一休」でもある。一休が詠んだ『狂雲集』は、一千首を越える漢詩であり、一休を理解するうえで重要な作品である。その内容は多岐にわたり、仏教哲学を論じ、当時の禅僧たちの風俗習慣を批判し、盲目の森女との愛をポルノグラフィックに詠う。加藤は一休に関心をもち、『狂雲集』を読み解き、ブリティッシュ・コロンビア大学で講じ、「一休という現象」(初出『日本の禅語録』1978)をはじめとする一休論を著わす。一休論は加藤の日本文学史研究の「定点」となるが、本ノートは、大学講義や一休論執筆のための準備作業としてつくられたものである。
|
|
1968 1969
|
|
1968年から69年にかけては世界史の転換点であり、大きな事件が次々に起きる。ヴェトナム戦争ではテト攻勢をきっかけとして北爆が停止され、パリ和平交渉が始まる。ヨーロッパでは、チェコスロヴァキアの自由化「プラハの春」があり、それを弾圧するためにソ連軍のプラハ侵攻が起きる。先進資本主義国では学生たちが体制に対する「異議申し立て」を唱えた。世界の大事件が起きると、加藤は徹底して情報収集に努めるが、その過程で採られたのが本ノートである。主要なメディアがプラハ侵攻について何を報じているかを書きとめ、それぞれの問題を考えるときに、その経済的背景を押さえるという方法を取る。本ノートによって、国際問題を考える場合の視点を知ることができる。
|
|
〔日本文学史〕
|
|
加藤周一の代表作のひとつは『日本文学史序説』である。十数年を費やして執筆の準備を重ねたが、その過程で採られたのが日本文学史関連ノートである。ノートはわら半紙やルーズリーフに綴られ、加藤自身によって表題がつけられ、ファイルされている。同一ファイルに収められるノートの書かれた時期を確定するのは困難である。「〔日本文学史(古代)〕」とか「〔日本文学史(平安)〕」といったように、時代ごとにファイルされたものもあれば「富永仲基」「鷗外・茂吉・杢太郎」といったように、人物ごとにファイルされたものもある。それぞれのノートが『日本文学史序説』や日本文学関連著作の叙述にどのような形で活かされているかを確認することができ、加藤文学史の特徴が浮かび上がる。
|
|
京都ー奈良1957
|
|
加藤はフランス留学中に、フランスに留まるか、フランスから帰るかについて悩んだ(その悩みを主題にした小説が『運命』(講談社、1956)である)。そして日本を学びなおそうと決意して帰国の道を選んだのであるが、フランスで大聖堂やロマネスク寺院を巡り歩いた経験は、加藤の奈良、京都の寺院に対する関心を強めた。本ノートは1957年に奈良の法隆寺、法起寺、法輪寺、薬師寺、唐招提寺や、京都の修学院、大徳寺、高山寺などを歩いたときのメモである。本ノートは『芸術論集』(岩波書店、1967)に収められた「仏像の様式」という論考に活かされ、また時代は下がるが『日本 その心とかたち』(平凡社、1987―1988)に活かされている。
|
|
タシュケント1958
|
|
1955年フランス留学から帰るとき、加藤は、マルセイユから神戸まで、一か月半をかけた船旅を選んだ。ゆく先々の港を通過しながら、加藤は「アジアは一つではない」ことを実感すると同時に、アジアを見たいという欲求を高めた。アジアを見る機会は1958年にやってきた。第1回アジア・アフリカ作家会議(第2回アジア作家会議ともいう)がウズベキスタンのタシュケントで開かれ、その準備委員として現地に赴いた。そして作家会議が終わると、ヨーロッパに回り、アフリカに足を伸ばし、インドに渡った。本ノートはそのときに採られた。手帳に綴られており、日記帳と見たもの聞いたものを書き留めたメモ帳とを兼ねている。アジアで見たこと、考えたことも綴られている。
|
|
晩香波日記
|
|
「ヴァンクーヴァー日記」と読む。安保改定問題が終わった1960年秋に、加藤はカナダのヴァンクーヴァーにあるブリティッシュ・コロンビア大学に招かれて、准教授として赴任する。以後、1969年まで同大学に籍を置くが、その時代を加藤は「蓄積の時代」とのちに呼んでいる。本ノートは1962年から1963年にかけて採られた。日記というよりもメモ書き、あるいは読書ノートという性格が強い。冷戦時代の国際政治に関するメモ書きが多いが、これらは1963年『毎日グラフ』に連載された「加藤周一の世界漫遊記」などに活かされており、加藤の国際政治への目配りの方法をうかがい知ることができる。日本文学史へのメモは書かれていない。
|
|
中華人民共和国1971
|
|
加藤が最初に中華人民共和国を訪れたのは1971年9月から10月にかけてのことである。文化大革命が進行していた時期であり、紅衛兵が活発に活動していた。本ノートは中国訪問時に購入もしくは譲渡されたものだろう。冒頭には毛沢東の写真が載っている。そして訪れた土地(広州、北京、西安、大慶など)で見たこと聞いたことに関するメモが綴られる。そこには、人に会って聞いた話の内容に関するメモ、台湾独立や米中問題などの政治状況から中国病院における針麻酔見学まで、あるいは中国経済から日中商談に至るまでのメモが記されている。これらのメモは『中国往還』(中央公論社、1972)のいくつかの論考に活かされている。
|
|
〔徳川〕
|
|
本ノートは加藤周一の主著『日本文学史序説』や『日本 その心とかたち』のもとになったノートの一冊である。加藤の日本文学史研究や日本美術史研究は、文学や美術という狭い領域に限られていない。たえず広い視野のもと、総合的な視点をもっている。〔徳川〕とわれわれが名づけた本ノートも(加藤は題名をつけていない)、徳川時代の文学や美術を研究するための前提として、まず徳川時代の社会や文化の特徴を押さえるために、その概観を記したノートである。徳川時代の社会や文化の特徴を、個人主義のない「世俗化」と感覚的洗練、そして神仏習合的考え方に見出している。本ノートが書かれた年代は不明なものの、海外の大学で日本文化を講じたときに採られたと考えられ、英文によって綴られた。
|
|
徳川時代・儒
|
|
本ノートは「徳川時代・儒」と名づけられた『日本文学史序説』に関連するノートである。普通、「儒教」は思想史が扱う領域であるが、加藤の文学史研究は、精神史研究でもあり、徳川時代を理解するうえで儒教は不可欠の問題として位置づけられる。儒教、ことに朱子学の「理」や「天」といった基本概念を儒学者がどのように理解していたか、そして外来の儒教と日本の神道とをどのように折り合いをつけていたのか、という問題意識を加藤が持っていたことがわかる。本ノートに採りあげられる思想家は、山本常朝、荻生徂徠、山片蟠桃、三浦梅園、石田梅岩、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、頼山陽などである。いずれも通常の日本文学史では言及されない人たちである。
|
|
国学
|
|
本ノートは『日本文学史序説』に結実していくノートである。「国学」と名づけられるノートだが、その内容の大半は本居宣長に充てられる。宣長の伝記的事実を年表に表し、代表作を抜き書きし、註釈がつけられる。採りあげる著作は『答問録』『古事記伝』『直毘霊』『石上私淑言』『源氏物語玉の小櫛』『秘本玉くしげ』『詞の玉緒』『あしわけをぶね』『玉勝間』、そして「遺言書」などである。宣長に関する加藤の最大の関心は、『古事記伝』に代表される精密な文学研究と、イデオローグとしての粗雑な議論とが、同一人物の中で両立していたこと、および死に当たっては神仏二つの流儀で葬送を行うことを細かく指示したことに注がれる。宣長以外では、賀茂真淵、契沖などに関するノートが綴られている。
|
|
〔新井白石〕
|
|
加藤の新井白石に関する関心はなみなみならぬものがある。白石の知的関心は広く、多面的活動をした(行政官から学者まで。そして学者としては、歴史学は言うに及ばず、民俗誌から言語学まで)、しかも白石の世界には内的な構造がある。白石の専門的研究と世界に対する全体的理解がどのように関連するかを論じたのが「新井白石の世界」(「岩波書店版日本思想大系」『新井白石』の解説)である。同論文を著すために採られたのが「本ノート」である。ここには白石の実証主義や白石の論法を主題としているが、ノートに記される白石の著作に『古史通』『読史余論』『西洋紀聞』『折たく柴の記』『鬼神論』『藩翰譜』などがある。さらに、白石の詩歌や訴訟における論法にも筆が及ぶ。
|
|
〔富永仲基ノート〕
|
|
富永仲基に対して加藤が関心を抱いたのは、ヴァンクーヴァーのブリティッシュ・コロンビア大学時代の1960年代にまで遡る。そのころに採られたノートである。仲基は大坂の町人の世界に生きた思想家であり、官製イデオロギーである朱子学から比較的自由な立場をとり、きわめて独創的な研究を進めた。神仏儒の教義の歴史的発展を「加上」の原理によって、客観的にかつ思想史的に論じた。本ノートでは仲基の伝記的事実が記され、仲基の代表作である『翁の文』についての註が書かれる。このノートを基にして「仲基後語」(1965、『三題噺』所収)という小説や、《Tominaga Nakamoto, 1715-46: A Tokugawa Iconoclast》(1967)という論文や、『富永仲基異聞 消えた版木』(1998)という戯曲を著した。
|
|
〔中国訪問 1977〕
|
|
加藤が中国を初めて訪れたのは文化大革命が進んでいる最中の1971年のことであった。その後何回となく中国を訪問することになるが、本ノートは、二回目の二週間にわたる中国訪問のときに日記風に綴られたノートである。訪れた地は、上海、広州、桂林、大同、北京などであるが、各地で目の当たりにした、文革前と文革後の中国社会の有様の比較を記す。また『白毛女』という芝居や『江姐』という歌劇を観る。桂林では南画を想起し、大同では石窟を訪れる。そればかりではなく、北京では北京医学院を訪れ、中国医学に大いに関心をそそられたことが綴られる。各地で革命委員会幹部にインタヴューしており、中国の経済状況や学校制度などについての記述が多くみられる。
|
|
Japanische Literatur〔MODERN〕近代作家
|
|
近代日本文学史上の作家たちに関するノートである。加藤の文学概念はきわめて広く、普通は文学者と位置づけられない人物に関する記述も含まれる。内村鑑三、西周、福沢諭吉、中江兆民、森鷗外、永井荷風、石川淳、中野重治、宮本百合子、正宗白鳥、二葉亭四迷、坪内逍遥、正岡子規、夏目漱石、岡倉天心、小林秀雄、芥川龍之介、谷崎潤一郎らについて記される。本ノートの特徴は、第一に、個々の作家の伝記的事実が年代を追って年表風に書かれていることである。まずは作家の全体像を把握することを目指したことを物語る。第二に、英語で記される部分が多いことである。多くは1960年代のブリティッシュ・コロンビア大学に赴任中に記された。
|
|
近代日本文学Notes
|
|
ノート「近代作家」と対になるノートで、記される作家は、鈴木大拙、芥川龍之介、有島武郎、内村鑑三である。本ノートはさきの「近代作家」よりもかなりあとに採られたノートであろう。使用されたルーズリーフから類推するに、1974年から76年にかけて、客員講師として赴任していたイェール大学時代に採られたノートではなかろうか。これらは『日本文学史序説 下』(筑摩書房、1980)に活かされたと思われる。
|
|
鷗外
|
|
アメリカのイェール大学で客員講師を務めた1974年から76年にかけて採られたノートだろう。イェール大学において、ロバート・リフトンやマイケル・ライシュとともに、近代日本の作家たちの死生観について共同研究を進め、共同講義を行ったときのノートである。この共同研究では、乃木希典、森鷗外、中江兆民、河上肇、正宗白鳥、三島由紀夫の6人についての研究成果が『日本人の死生観』(上下、岩波新書、1977)として、また《SIX LIVES SIX DEATHS》として刊行された。共同研究のうち鷗外に関して加藤が採ったノートが本ノートであり、10頁にわたる。ノートのほかに英文による鷗外に関する草稿(非デジタル化)が付されている。誰が筆者であるかは不明である。
|
|
le phénomène 荷風
|
|
章題から分かるように永井荷風について記されたノートである。1960年安保闘争の日々から、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学に赴任したころにかけて採られたノートであるが、本ノートを基にして「物と人間と社会――荷風という現象」(『世界』1960年6月号~1961年1月号)が書かれた。連載時期との関係から類推すれば大半は日本で採られたと考えられる。加藤には荷風論がいくつかあるが、その代表的な論考である。本ノートは、「日記抜粋」「断腸亭日乗:読書」「荷風の女」〈Ce que Kafu hérite〉 〈l’amour chez Kafu〉などがある。ノートは日本語、フランス語、英語を使って書かれている。末尾に『世界』連載の切抜き(非デジタル化)が付される。
|
|
〔正宗白鳥〕
|
|
本ノートも「鷗外」と同様に、ロバート・リフトン、マイケル・ライシュと「日本人の死生観」の共同研究を進める過程で採られたと考えられる。総14頁ほどの分量であるが、主題の中心は白鳥の宗教観である。末尾には前出『日本人の死生観』に結実する草稿(非デジタル化)が付されているが、誰の手による論考であるかは不祥である。
|
|
斎藤茂吉 1882-1953
|
|
齋藤茂吉に関するノートで、採られた時期は1990年代初めだろう。そのように考える理由は、使用されているルーズリーフが新しいものと判断できること。もうひとつは本ノートを基にした論考が1993年に刊行された「齋藤茂吉の世界」(『近代の詩人3』潮出版社)であることである。論考の主題は、齋藤茂吉の短歌の全体的理解である。一方で柿本人麻呂などのすぐれた研究、自らが詠んだ斬新で画期的な短歌表現、もう一方での社会現象に対する稚拙な理解が、ひとりの詩人のなかで、どのように成立していたかを分析するものであった。その全体的理解のために採られたノートはかなりの分量に達する。末尾には出版社にファックスで送った原稿(非デジタル化)の一部が残されている。
|
|
1978 AVRIL 中国
|
|
1978年、加藤三度目の訪中時に採られたノートである。小型(A6判)のノートで、20頁ほどの記述がみられる。北京、西安、洛陽、龍門を訪れている。西安では大雁塔を見学と美術工芸品工場を見学する。龍門石窟は丁寧に見学した様子がノートからうかがわれる。または白馬寺や漢墓を訪れる。北京に戻り、頤和園を訪ね、臥佛寺、碧雲寺に足を延ばし、明十三陵のうち長陵と定陵を見学する。北京から日本に帰らず、そのままスイスのジュネーヴ、さらにフランスへ飛んだことが記される。
|
|
日本文学史序説 NOTES
|
|
本ノートは『日本文学史序説』を執筆するために採られたノートであるが、表題名にかかわらず、近代日本文学史に集中する。加藤が近代日本文学史を見る方法は主として「世代論」によっている。すなわち、1868年の世代、1885年の世代、1900年の世代が中心となる。1868年の世代には、幸田露伴、泉鏡花、鈴木大拙、柳田国男、正岡子規、夏目漱石、森鷗外らを中心に採りあげる。1885年の世代として、谷崎潤一郎、中里介山、木下杢太郎らを中心に書かれ、1900年の世代として芥川龍之介に関するノートとなっている。要するに『日本文学史序説』の第10章「第四の転換期」、第11章「工業化の時代」の執筆のためのノートである。採られた時期は1970年代だろう。
|
|
日本文学史序説下 NOTES
|
|
本ノートは「日本文学史序説下」となってはいるが、扱われる時代は中世から近世末期までにかけてであり、採られた「ノート」の内容もかなり多岐にわたる。能・狂言に始まり、鎌倉仏教や禅宗とその世俗化、「本歌取り」などにも触れるが、江戸時代の文学者に関する記述が大半を占める。加藤の文学概念は広く、新井白石、荻生徂徠から福沢諭吉、中江兆民までが視野に収められている。一方、俳諧や川柳、歌舞伎、そのなかでも「忠臣蔵」に関する叙述も見られる。加藤の基本的方法である「年表作成」もふんだんに使われている。『日本文学史序説』第7章「元禄文化」、第8章「町人の時代」、第9章「第四の転換期上」執筆のためのノートだったろう。
|
|
Japanese Literature (MODERN) Va
|
|
本ノートには、明治から昭和初期にいたる時代の文学とその歴史的背景について記されている。「Christianity」「社会主義文学」「Western Influence」「日本自然主義文学」「白樺」「Modernization」「新感覚派」「日本浪漫派」「日本の芝居」など概観的な表題が多い。使用言語は日本語と英語であるが、英語が大半を占めている。このような使用言語、それに加えてノートの材質から判断するに、このノートが採られた時期は1960年代、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学時代だと判断できる。内容的には《Japanese Intellectual History (MODERN) Vb》と対になるノートであり、『日本文学史序説』の母体となったノートである。
|
|
Japanese Intellectual History (MODERN) Vb
|
|
本ノートは近代日本文学の背景となる近代日本思想史、ことに明治から昭和前半にかけての近代日本思想史に関する記述がみられる。表題には「文明開化」「明六社」「自由民権運動」「初期キリスト教」「農本主義」といった項目が立てられている。一方「明治原始資本蓄積」や「19世紀米収穫量」といった経済関係項目も立っており、『日本文学史序説』各章の冒頭にはその時代の社会経済的背景が述べられていることと符合する。加藤へのマルクス主義の影響を認めることができる。作家としては、島木健作、大川周明に関心を寄せていたことが分かる。《Japanese Literature (MODERN) Va》と対になるノートであり、『日本文学史序説』の母体となったノートである。
|
|
Buddhism in general
|
|
本ノートは、仏教が日本に伝来した推古朝(6世紀)から、真言や天台を経て、13世紀の禅宗までを中心に据えた日本仏教史を通観している。たんに宗派の教義や仏教用語の解説を記すのではなく、仏教思想が与えた文化への影響に関する記述が特徴的で、絵画や能狂言、死生観に与えた影響にも言及される。仏教僧としては道元に関する記述が多く、『正法眼蔵』や『弁道話』に関する註釈も書かれる。『Japanese Buddhism Ⅱ 本朝高僧』と対になるノートである。また日本仏教をインドのヒンドゥー教と比較した記述もある。『日本文学史序説』との関連でいえば、特定の章を書くために採ったノートではなく、各章に通底する仏教思想を確認するためのノートであったろう。
|
|
Japanese Buddhism Ⅱ 本朝高僧
|
|
本ノートは鎌倉時代から江戸時代にかけての仏僧たちの活動や思想に関する記述が基本に据えられている。ノートに採られる仏僧では、道元、親鸞、日蓮に多くの頁を割いているが、ほかにも無住、盤珪禅師、鈴木正三、澤菴、白隠、虎関師錬、中厳圓月などの記述がみられる。使用される言語は、日本語、漢文、ドイツ語で書かれる。漢文は白文で書かれていて、加藤の漢文の素養をうかがい知れる。またノートの内容とノートの材質から判断して、本ノートが採られた時期は、1970年代初め、すなわちベルリン自由大学時代だったろうと推測される。加藤の仏教史研究は長く、かつ幅広い。このノートの内容も『日本文学史序説』に活かされている。
|
|
14 Days in INDIA and CEYLON 1959
|
|
1958年ウズベキスタンのタシュケントで第1回アジア・アフリカ作家会議が開かれる。その準備委員として加藤は参加し、アジア・アフリカの作家たちと知り合う。そのひとりにインドの作家がいて、インドに来るように誘われる。1959年に2週間、インド、セイロン(今日のスリランカ)を訪れたときに採ったノートである。加藤の目的はインド南西部のケララ州にあった。ケララは1957年にインド共産党が選挙によって政権を取得。以降インド共産党とインド国民会議派とがほぼ交互に政権を確立している。共産党政権の実態を見たかったのである。のちに『ウズベク・クロアチア・ケララ紀行』(岩波新書、1959)を刊行するが、その母体となったノートである。
|
|
Modern Jap. History (1900- 1945)
|
|
20世紀前半の日本社会を押さえておくためのノートである。加藤の主なる研究主題である日本文学史にしても、日本美術史にしても、たえず社会経済史的背景や国内外の政治史的背景を意識している。日本近代史が主題であるが、ドイツの同時代、フランスの同時代との比較という視点も持ち込まれている。参考のためであろうが、ヴェトナム戦争に関する記述もある。視野は政治や経済から教育や思想にまで広がる。軍隊や反軍感情、弾圧史という項目もある。特定の著作のためのノートではない。正確には分からないが、1960年代前半から後半にかけて採られたノートだと思われる。かなりの分量のノートが採られている。大半は日本語で書かれているが、一部は英語で綴られている。
|
|
Sociology Modern Jap. History (1945-)
|
|
第二次世界大戦以後の日本史に関するノートである。これも日本文学史や日本美術史を考えるための、そして国際政治を考える場合の基礎的な枠組みを確認するためのノート採録である。書かれた言語はほとんどが英語、一部が独語や仏語である。1960年代後半に採られたノートと思われるが、この時代を加藤自身は「蓄積の時代」と呼んでいた。その言葉を裏付けるように、このノートはかなり精力的に採られている。題名に〈Sociology〉という語が入っているが、〈Intellectual Climate〉 〈Alienation〉という項目も立てられている。
|
|
Lit. Japonaise (Théorie)
|
|
題名はフランス語で書かれるが、内容は日本文学史上の文学論および文学について論じた文学者について立項されたノートである。使用言語は、主として日本語、一部英語である。項目としては「歌論」「鴨長明」「俊頼髄脳」「為兼御和歌抄」「穂積以貫 難波土産」「役者論語」「世阿弥」「花伝書」「大蔵虎明 わらんべ草」「無名草子」「俳論」などがある。このノートを特定の著書と結びつけるのは困難であり、加藤の文学史の基本になる「文学とは何か」という問題を考えるときの基本を示していると解釈するのが妥当のように思われる。『日本文学史序説』の基本的な考え方と通底する。書かれた時期は1960年代だろうと思われる。
|
|
主観主義
|
|
江戸時代の思想における「主観主義」に関するノートである。主観主義とは、客観的状況を考慮することよりも、己れの主観に基づいて行動したり考えたりすることを優先する思想と行動をいう。「今・ここ」主義が強い日本人のものの考え方の特徴でもある。見出しには「石田梅岩」「佐藤一齋」「大塩中齋」「本居宣長」「貝原益軒」「熊沢蕃山」「中江藤樹」などが掲げられる。その中心は石田梅岩と本居宣長である。このノートと関連する加藤の著作は、『石田梅岩 富永仲基』(「日本の名著」18、中央公論社、1972年)所収の「江戸思想の可能性と現実」である。また『日本文学史序説』(下、筑摩書房、1980年)の準備のノートでもある。
|
|
死
|
|
「死」と題されたノートは、主としてイェール大学時代(1974- 1976)に採られたノートである。1975年の日付けの入った頁もある。同大学に赴任中、精神医学のロバート・リフトンやマイケル・ライシュとともに日本人の死生観に関する研究会をもっていた。その研究が『日本人の死生観』(上・下)(岩波新書、1977年、翻訳は矢島翠)および《Six Lives, Six Deaths》 (Yale University Press, 1979)に結実する。同書に採り上げられた「三島(由紀夫)」「(正宗)白鳥と河上肇」「中江兆民」といった項目のほかにも「宣長遺言」「江戸の文人と死」「曽根崎心中」「石田梅岩」「山本常朝 葉隠」といった項目もある。研究会のためのノートであり、大半は英語で採られている。
|
|
Oriental Arts
|
|
日本美術史関連のノート2冊である。1967年あるいは1968年という日付が確認できるので、本ノートが採られたのは、ヴァンクーヴァーのブリティッシュ・コロンビア大学に赴任していた時期に採られたノートといってよいだろう。同大学では日本美術史あるいは日本文化史を講じたことがある。そのためのノートだろうか。書かれた言語は日本語と英語が相半ばする。このノートをもとにして『芸術論集』(岩波書店、1967年)や『称心独語』(新潮社、1972年)が書かれた。
|