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青春ノート
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加藤が1937年から1942年5月にかけて、すなわち17歳から22歳にかけて書き綴った8冊の冊子型ノートがある。われわれはこれを「青春ノート」と名づけた。「青春ノート」には、短編小説、詩歌、評論、随想、日記、警句などが綴られる。加藤が思索したことが記されるが、そのいくつかはのちの加藤の著作に発展継承されていく。たとえば「一九四一年十二月八日」という表題の日記がある。そこには太平洋戦争が始まった日の大学内の様子や、教授陣の態度や、加藤が考え感じたことが述べられており、これは加藤を知る上で重要であるばかりではなく、歴史的な資料としても貴重である。
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JOURNAL INTIME
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《Journal Intime 1948-1949》および《Journal Intime 1950-1951》は、1948年から1949年、そして1950年から1951年にかけての公私にわたる出来事が綴られた日記である。加藤周一が、戦後初期、作家として旺盛な執筆活動を展開しはじめる時期からフランスに留学する直前までの時期に当たる。加藤の人生の重要な転機となった時期であり、そのきっかけとなった母ヲリ子の逝去に至る日々が描かれ、ヲリ子の「遺言」も付される。また、三島由紀夫、竹内好、中野重治ら、当時加藤と交流があった文学者たちにも言及される。このころ加藤が多忙をきわめたため、途中から妻綾子も日記を綴った。しかし、綾子の書いた部分は綾子の御遺族の御意向により割愛されている。
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〔詩作ノート〕
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1951年11月から55年1月までフランスに留学するが、加藤はフランス国内だけではなく、スイス、イタリア、ドイツ、イギリス、オランダなどを旅する。ルネサンス絵画を観るためにイタリアに行ったのは1952年秋のことである。フィレンツェでのちに結婚することとなるヒルダ・シュタインメッツと出会い、ヒルダに愛を感じる。加藤は女性に愛を感じたとき詩を詠むことが多く、本ノート(縦17センチ、横11センチ)には、ヒルダへの愛が詠まれた詩や、ヒルダへの愛をきっかけとして訪れた地に対する覚書が綴られる。ノートに表題は付けられていないが、加藤文庫ではこれを「詩作ノート」と名づけた。書かれた年代は1952年から54年にかけてだろう。ヒルダへの愛の喜びだけではなく、愛の苦しみや愛の悩みも詠まれる。
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Notes on Arts
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本ノートは1960年代中頃に採られたノートであり、《Notes on Arts》と英語表記されるが、主題は日本美術史に関するノートである。加藤の日本美術史研究は1960年代に本格的に始まり、本ノートは日本美術史研究を進める過程で採られた。本ノートには加藤が見て歩いた仏像彫刻や源氏物語絵巻についての記述があり、加藤自ら描いた図も含まれる。このノートから「仏像の様式」(初出『芸術論集』1967)や「『源氏物語絵巻』について」(初出『東京新聞』1965)や「日本の美学」(初出『世界』1967)が著わされる。この三つの論考は、加藤の日本美術史研究にとっては大きな意味をもち、これによって日本美術史研究の基本的な枠組みをつかんだ。
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狂雲集註
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一休は室町時代の禅僧であり、名は宗純といい、狂雲子とも号した。われわれが知るのは「頓知の一休」であり、「高僧一休」であり、そして「破戒僧一休」でもある。一休が詠んだ『狂雲集』は、一千首を越える漢詩であり、一休を理解するうえで重要な作品である。その内容は多岐にわたり、仏教哲学を論じ、当時の禅僧たちの風俗習慣を批判し、盲目の森女との愛をポルノグラフィックに詠う。加藤は一休に関心をもち、『狂雲集』を読み解き、ブリティッシュ・コロンビア大学で講じ、「一休という現象」(初出『日本の禅語録』1978)をはじめとする一休論を著わす。一休論は加藤の日本文学史研究の「定点」となるが、本ノートは、大学講義や一休論執筆のための準備作業としてつくられたものである。
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1968 1969
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1968年から69年にかけては世界史の転換点であり、大きな事件が次々に起きる。ヴェトナム戦争ではテト攻勢をきっかけとして北爆が停止され、パリ和平交渉が始まる。ヨーロッパでは、チェコスロヴァキアの自由化「プラハの春」があり、それを弾圧するためにソ連軍のプラハ侵攻が起きる。先進資本主義国では学生たちが体制に対する「異議申し立て」を唱えた。世界の大事件が起きると、加藤は徹底して情報収集に努めるが、その過程で採られたのが本ノートである。主要なメディアがプラハ侵攻について何を報じているかを書きとめ、それぞれの問題を考えるときに、その経済的背景を押さえるという方法を取る。本ノートによって、国際問題を考える場合の視点を知ることができる。
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〔日本文学史〕
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加藤周一の代表作のひとつは『日本文学史序説』である。十数年を費やして執筆の準備を重ねたが、その過程で採られたのが日本文学史関連ノートである。ノートはわら半紙やルーズリーフに綴られ、加藤自身によって表題がつけられ、ファイルされている。同一ファイルに収められるノートの書かれた時期を確定するのは困難である。「〔日本文学史(古代)〕」とか「〔日本文学史(平安)〕」といったように、時代ごとにファイルされたものもあれば「富永仲基」「鷗外・茂吉・杢太郎」といったように、人物ごとにファイルされたものもある。それぞれのノートが『日本文学史序説』や日本文学関連著作の叙述にどのような形で活かされているかを確認することができ、加藤文学史の特徴が浮かび上がる。
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京都ー奈良1957
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加藤はフランス留学中に、フランスに留まるか、フランスから帰るかについて悩んだ(その悩みを主題にした小説が『運命』(講談社、1956)である)。そして日本を学びなおそうと決意して帰国の道を選んだのであるが、フランスで大聖堂やロマネスク寺院を巡り歩いた経験は、加藤の奈良、京都の寺院に対する関心を強めた。本ノートは1957年に奈良の法隆寺、法起寺、法輪寺、薬師寺、唐招提寺や、京都の修学院、大徳寺、高山寺などを歩いたときのメモである。本ノートは『芸術論集』(岩波書店、1967)に収められた「仏像の様式」という論考に活かされ、また時代は下がるが『日本 その心とかたち』(平凡社、1987―1988)に活かされている。
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タシュケント1958
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1955年フランス留学から帰るとき、加藤は、マルセイユから神戸まで、一か月半をかけた船旅を選んだ。ゆく先々の港を通過しながら、加藤は「アジアは一つではない」ことを実感すると同時に、アジアを見たいという欲求を高めた。アジアを見る機会は1958年にやってきた。第1回アジア・アフリカ作家会議(第2回アジア作家会議ともいう)がウズベキスタンのタシュケントで開かれ、その準備委員として現地に赴いた。そして作家会議が終わると、ヨーロッパに回り、アフリカに足を伸ばし、インドに渡った。本ノートはそのときに採られた。手帳に綴られており、日記帳と見たもの聞いたものを書き留めたメモ帳とを兼ねている。アジアで見たこと、考えたことも綴られている。
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晩香波日記
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「ヴァンクーヴァー日記」と読む。安保改定問題が終わった1960年秋に、加藤はカナダのヴァンクーヴァーにあるブリティッシュ・コロンビア大学に招かれて、准教授として赴任する。以後、1969年まで同大学に籍を置くが、その時代を加藤は「蓄積の時代」とのちに呼んでいる。本ノートは1962年から1963年にかけて採られた。日記というよりもメモ書き、あるいは読書ノートという性格が強い。冷戦時代の国際政治に関するメモ書きが多いが、これらは1963年『毎日グラフ』に連載された「加藤周一の世界漫遊記」などに活かされており、加藤の国際政治への目配りの方法をうかがい知ることができる。日本文学史へのメモは書かれていない。
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