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大正十三年(一九二四年)五月八日
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1924/5/8
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○盛岡市八幡町に生まれる。本名菅野民子(かんのたみこ)。父佐介(明治二十一年七月七日生まれ)、母カネ(明治二十四年八月十日生まれ)の次女。四姉妹であった。父は盛岡警察署に勤務していた。
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昭和三年(一九二八年) 十二月二十九日
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1928/12/29
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○三女 菅野ケイ子生まれる。「お民さん」(「短歌研究」昭和六十一年一月)の中に「妹は佐代子と言った。佐介の四番めの娘……」とある。(五十四頁)。三番めの娘が居るはずである。よくよく調べてみたらケイ子と命名された三番目の娘が居た。(平成七年一月のこと)。
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四歳
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昭和四年(一九二九年) 一月二十三日
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1929/1/23
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○三女菅野ケイ子死去。(戒名不明)短い生涯だったので、民子にとっても一緒に生活したという記憶がないので、「子供時代の家族白書」にも「三人姉妹」と題し書いている。(「短歌研究」平成五年十月)
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五歳
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昭和六年(一九三一年) 四月六日
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1931/4/6
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盛岡市立城南尋常小学校入学。
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七歳
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昭和六年(一九三一年) 九月二十七日
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1931/9/27
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○四女菅野佐代子生まれる。佐代子と一緒の職場に勤務していた方から、佐代子の本籍地をお聞きしたので『大西民子の歌と人生』の「略年譜」に掲載したが、「家族の本籍地かどうかわからない」とのことであったので、民子と佐代子の本籍地を調べたが、見当たらなかったので、今回ここから省いた。
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七歳
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6
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昭和十一年(一九三六年) 六月十六日
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1936/6/16
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○長女菅野サト(大正四年十月十七日生まれ)が藤根敏夫と結婚。
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十二歳
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7
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昭和十一年(一九三六年) 十一月一日
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1936/11/1
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第十回県下学童陸上競技大会で総合優勝した。女子が優勝、男子は三位であった。民子はバスケットボールを遠くまで投げるボール投げで二位となった。
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十二歳
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昭和十二年(一九三七年) 三月二十五日
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1937/3/25
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○盛岡市立城南尋常小学校卒業。卒業式の席上、成績優等受賞者として市長賞を受賞した。
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十三歳
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昭和十二年(一九三七年) 四月五日
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1937/4/5
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○岩手県立盛岡高等女学校入学。成績一番で入学、入学式で答辞を述べた。天神山の啄木の歌碑を読み、関心が高まり、この頃から歌を作るようになった。
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十三歳
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昭和十三年(一九三八年) 一月二十七日
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1938/1/27
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○藤根家に嫁いでいた長女サト死去。(享年二十二歳)
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十四歳
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昭和十六年(一九四一年) 三月十九日
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1941/3/19
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○岩手県立盛岡高等女学校卒業。
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十七歳
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昭和十六年(一九四一年) 四月十日
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1941/4/10
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奈良女子高等師範学校文科第一部(国漢専攻)に入学(第三十三期生)。寄宿舎に入る。国文学の専攻生は十三人であった。 〝明治文学史を岩城準太郎教授、国文法を木枝増一教授に学ぶ。 『石の船』(昭和五十一年五月 短歌新聞社)の「大西民子略年譜」より。 歴史学を佐藤小吉教授に学んだ。(詳しくは「ある日 あの時」の「女高師時代のこと」を参照)。〟
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十七歳
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昭和十六年(一九四一年)
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1941
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「歌ひとすじ」(「北の文学」昭和五十八年十一月)によると、「この年前川佐美雄に会う」とある。
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十七歳
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昭和十八年(一九四三年) 三月
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1943/3
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大西 博 埼玉県立浦和中学校卒業(現浦和高等学校)。同級生の熊谷理治「民子さんの思い出」(『大西民子の歌と人生』より。)
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十九歳
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昭和十九年(一九四四年) 九月三十日
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1944/9/30
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○第三十三回奈良女子高等師範学校文科卒業。卒業生は、文科二十六人(このうち国文学専攻生は十三人)理科三十一人、家事科三十八人、計九十五名であった。 昭和十七年から昭和二十年まで九月三十日が卒業式の日であった。 (『奈良女子大学六十年史』より。)
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二十歳
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昭和十九年(一九四四年) 九月三十日
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1944/9/30
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高等女学校の修身、国語、歴史の免許状を文部省より下附された。(音楽の免許状はない。)
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二十歳
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昭和十九年(一九四四年) 十月二十五日
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1944/10/25
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岩手県立釜石高等女学校(後釜石第二高校その後釜石南高校)に赴任する。
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二十歳
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昭和二十年(一九四五年) 一月五日
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1945/1/5
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父・佐介死去(享年五十六歳) 戒名「法性院薫與浄真居士」。 「死亡届」によると、昭和二十年一月五日午前一時死亡とある。墓石を見ると昭和二十年一月四日とあるが「届け出」に拠った。
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二十一歳
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昭和二十年(一九四五年) 七月
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1945/7
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当時釜石には、日鉄釜石製鉄所があり、米軍の攻撃目標となり、艦砲射撃によって壊滅状態となった釜石をのがれた。〝一年生を先ず疎開させることとなり、三組の百五十人、担任の三人で引率して遠野市へ向った。鉱石を運ぶのに作られたのだという鉄道もとうに爆破されていて、四十粁ほど歩くしかなかった。「私の八月十五日」(「短歌」平成三年八月)より。〟
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二十一歳
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20
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昭和二十年(一九四五年) 九月
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1945/9
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大西 博、仙台工業専門学校機械工学科卒業。
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二十一歳
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昭和二十年(一九四五年) 十月
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1945/10
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大西 博、岩手県立釜石工業高等学校教諭となる。
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二十一歳
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昭和二十一年(一九四六年) 一月一日
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1946/1/1
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関 登久也主宰「歌と随筆」が創刊される。「作品2」に「近詠」と題し三首。寄付者芳名欄に「一金 二十円也 岩手県菅野民子」とある。
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二十二歳
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昭和二十一年(一九四六年) 十一月一日
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1946/11/1
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「高等文官試験」を受験したが合格叶わなかった。六日間にわたり七課目、女性は七十名中ただ一人だった。「高文受験」には、関心が高かったようで、昭和二十二年一月の「歌と随筆」に「高文前後」と題し六首、昭和二十二年九月「蔗境」創刊号に「高文」と題し三首掲載されている。
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二十二歳
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昭和二十一年(一九四六年) 十一月一日
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1946/11/1
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前川佐美雄編集「オレンヂ」が創刊される。「同人作品2」に「無題」三首。
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二十二歳
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昭和二十一年(一九四六年) 十一月二十七日
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1946/11/27
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「新岩手日報」の「家庭と女性」欄に随筆「高文を受験して」が掲載される。(筆者は釜石高女校教諭)とある。
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二十二歳
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昭和二十二年(一九四七年) 三月
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1947/3
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大西 博と結婚生活に入る。
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二十三歳
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昭和二十三年(一九四八年) 一月
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1948/1
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男子を早死産。戒名「開祥孩子」。〝その日が何日であったかは、菩提寺の位牌にもなぜか書いていない。昭和二十三年一月とのみである。 北沢郁子「わざわいは怖るる者に」(『回想の大西民子』平成九年十一月砂子屋書房)〟 このあと、尿毒症による網膜剥離により半盲の状態で七月まで病床にあった。
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二十四歳
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昭和二十三年(一九四八年) 十一月十三日
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1948/11/13
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○埼玉県立文化会館開館。初代館長下地惠常。(「埼玉文化」を調べて行ったら、「文化会館」の経緯、開館の日のことがわかった。)
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二十四歳
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昭和二十四年(一九四九年) 二月
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1949/2
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大宮市(現さいたま市)に移り住む。(夫・博が恩師を頼って新天地を大宮市に求めた。) 夫にひきずられるようにして大宮に移り住んだのは、昭和二十四年二月、私が二十五歳のころであった。(中略) (『自解100歌選大西民子集』の「あとがきにかえて」(昭和六十一年四月牧羊社)より。以上『自解100歌選』)
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二十五歳
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昭和二十四年(一九四九年)
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1949
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埼玉県教育委員会埼玉県立文化会館勤務となった。夫の恩師下地(しもじ)先生が文化会館の館長であった。 〝夫はともかく私の方は予定に入っていなくて、主事の空席がなく嘱託職であった。〟 「波止場から」(「短歌時代」平成六年二月)。 この時、浄国寺の川端信明(しんみょう)師が同じ職場にあった。『埼玉県教育要覧』(昭和二十五年三月二十日発行)によると、川端信明は主事、大西民子は雇であった。 〝大西さん達が寺に住むことになったきっかけは、御前(主人・川端信明師)が県立文化会館に勤務していた頃、同僚であったところから、寺においでになったのです。〟 川端たけ乃「寺に住まれた頃のこと」(『大西民子の歌と人生』より。)
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二十五歳
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昭和二十四年(一九四九年) 四月一日
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1949/4/1
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大西民子が「文化会館」にて文化関係事務を担当した。(昭和四十三年四月一日、教育局社会教育課に「文化係」が設置され、「文化会館」で行われていた文化関係事務が移管されるまで、十九年間、民子が担当した。)
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二十五歳
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昭和二十四年(一九四九年) 九月一日
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1949/9/1
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高等学校二級普通免許状、国語、修身、歴史が埼玉県教育委員会から下付された。
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二十五歳
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昭和二十四年(一九四九年) 十月一日
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1949/10/1
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○夫・博、教育局秘書室に異動となる。(夫婦別々の職場となる。)『職員名簿』で調べていただいた。『埼玉県教育要覧』も参考にした。
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二十五歳
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昭和二十四年(一九四九年) 十月
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1949/10
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木俣修に何度も手紙を書いて送り、入門を願い出、入門を許された。
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二十五歳
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35
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昭和二十四年(一九四九年) 十一月一日
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1949/11/1
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木俣修の指導の下にあった岩上とわ子主宰の「朱扇」が創刊された。
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二十五歳
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36
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昭和二十五年(一九五〇年) 一月二十八日
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1950/1/28
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埼玉県文化団体連合会が設立される。事務担当大西民子。
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二十六歳
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37
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昭和二十五年(一九五〇年) 三月十五日
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1950/3/15
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○菅野佐代子、岩手県立高田高等学校卒業。(佐代子と当時同じ職場に勤務していた方から十五日であったそうだ、とお聞きした。)(平成七年一月のこと)
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二十六歳
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38
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昭和二十五年(一九五〇年) 五月二十日
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1950/5/20
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「埼玉文化月報」が創刊された。編集発行人下地惠常。第十四号(昭和二十七年三月二十日)まで。人事異動により交代。民子は「埼玉文化月報」並びに郷土資料、人物誌等の刊行、万葉植物園の運営管理などを担当した。「埼玉文化月報」は県内の文化人や文化団体の連絡、広報紙であった。
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二十六歳
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39
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昭和二十六年(一九五一年) 二月一日
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1951/2/1
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○妹・佐代子埼玉県立埼玉図書館に「雇」として採用された。(昭和三十年三月三十一日まで) (当時、佐代子と同じ職場に勤務していた方から、平成七年一月に、「二月一日」の採用だった、とお聞きしたので掲載した。『埼玉県教育要覧』によって職名が「嘱託」でなく「雇」であったことがわかった。)
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二十七歳
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40
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昭和二十六年(一九五一年) 三月三十一日
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1951/3/31
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埼玉県立図書館設置条例制定、館名を埼玉県立図書館と改称。(この日以前は埼玉県立埼玉図書館であった。)『埼玉県立浦和図書館50年誌』による。
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二十七歳
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昭和二十七年(一九五二年) 五月一日
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1952/5/1
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○夫・博、埼玉県立図書館勤務となる。博と同じ日に図書館勤務となった方からお聞きした。昭和二十七年であること、『埼玉県教育要覧』で確認した。(『大西民子の歌と人生』に昭和二十八年五月とあるのは私の誤記。)
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二十八歳
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昭和二十八年(一九五三年) 二月二十日
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1953/2/20
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「埼玉文化月報」第二十四号の「編集後記」に(T・O)とあり、この号からT(民子)・O(大西)と担当者の頭文字が記載された。
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二十九歳
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昭和二十八年(一九五三年) 四月
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1953/4
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○妹・佐代子、埼玉大学文理学部文学科入学(この時、佐代子は埼玉県立図書館に勤務していたこと、同じく勤務していた方からお聞きした。)
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二十九歳
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昭和二十八年(一九五三年) 五月一日
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1953/5/1
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木俣修主宰「形成」が創刊される。創刊号の「新人作品その2」に「風の音」と題し七首。
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二十九歳
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昭和二十九年(一九五四年) 九月二十六日
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1954/9/26
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埼玉県歌人会の発起人会発足、事務局を文化会館に置き、大西民子が事務を担当することになった。
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三十歳
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昭和二十九年(一九五四年) 十月二十日
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1954/10/20
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この日の「埼玉新聞」一面の中に、小見出し「県職員の昇任試験」とあり、「試験は、今年中に実施すべく人事委員会で検討している。」という記事がある。 このことについて、「波止場から」(短歌現代)の中に、〝昭和二十九年、県庁初めてという昇任試験が行われ、三千人(ママ)が受けたが幸い通って任官、思わぬ退職金がころがりこんだ。〟とある。いつ試験が実施されたか不明である。
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三十歳
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昭和二十九年(一九五四年) 十月二十一日
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1954/10/21
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埼玉県歌人会が発足する。初代会長小笠原文夫、事務局担当大西民子。
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三十歳
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昭和三十年(一九五五年) 七月十日
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1955/7/10
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「参考事務ニュース」が創刊される。(ガリ版)。これは、参考事務係長であった大西博が担当。図書館と閲覧者を結ぶ往復書簡であった。関根敬一郎「菅野民子さんへのオマージュ」の中にも書かれている。(『大西民子の歌と人生』の中にある。)
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三十一歳
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昭和三十年(一九五五年) 十月一日
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1955/10/1
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一日発行の『埼玉県教育要覧』によると民子の職名は「嘱託」であった。
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三十一歳
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50
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昭和三十一年(一九五六年) 四月一日
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1956/4/1
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第一歌集『まぼろしの椅子』を新典書房より出版。
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三十二歳
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