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堺市史 第七巻
((四)七道)
堺市史 第
七
巻 / (四)
七
道
地名傳説中諸説紛々として由來する處不明でありながら、人口に膾炙したものは
七
道
である。,【地域】現在
七
道
の名を存するのは東西兩
七
道
町のみであるが、以前は此兩町の以南に當る北半町、南旅籠町の西方,【傳説】
七
道
の地名傳説については次の諸説がある。 (一)高渚寺の
七
堂伽藍があつた爲め。,(堺鑑) 右四説中最も知られたものは(一)説で、
七
道
の文字を多く
七
堂と記したのも其爲めである。,があり、【
七
不思議】古來
七
道
七
不思議とて五色の鮒、片目の蟹、片葉の蘆、日のてらぬ所、雨のふらぬ所等以下
七
/ (四)
七
道
堺市史 第七巻
((二七)道顯)
堺市史 第
七
巻 / (二
七
)
道
顯
道
顯姓は足利、堺眞宗寺第五代、母は原田佐衞門の女である(眞宗寺系圖)文明二年本堂を再建,【樫木屋
道
場】右寺院は始め樫木屋町にあつたから、世人之を樫木屋
道
場と稱した。,堺御坊御役錄、堺鑑中、泉州志卷之一)蓮如此處に僑居して、親ら教行信證、持名鈔並びに六字の名號等を書して、之を
道
顯,(信證院眞宗寺略緣起)
道
顯後本覺院と號し、明應二年正月五日享年八十歳を以て示寂した。 / (二
七
)
道
顯
堺市史 第七巻
((一七)指吸匡道)
堺市史 第
七
巻 / (一
七
)指吸匡
道
【堺の人】【指吸氏】指吸匡
道
法諱は慧潭、要津と號した。,時に海山、八幡の圓福寺に法幢を開き、
道
價關西に高きを聞き、其門に入り、十四年の久しきに亙つた。,【資性】匡
道
資性溫厚謹嚴、恬淡にして堅忍、粗食、粗服老來益々頑健、志を向上の妙機に傾け、未だ曾て怠ることなく,法臘
七
十八。世壽八十八であつた。(近世禪林叢談) / (一
七
)指吸匡
道
堺市史 第七巻
((二一七)桔梗屋道職)
堺市史 第
七
巻 / (二一
七
)桔梗屋
道
職 【堺の茶人】【辻玄哉の門弟】桔梗屋
道
職は堺の茶人で、武野紹鷗の門下、辻玄哉の門弟,(數寄者名匠集)慶安三年
七
月歿し、法號を悟眞院
道
職といふ。(本成寺過去帳) / (二一
七
)桔梗屋
道
職
堺市史 第七巻
((一一七)草部屋道雪)
堺市史 第
七
巻 / (一一
七
)草部屋
道
雪 草部屋
道
雪は堺の茶人で、(堺數寄者の物語、數寄者名匠集)【宗久門下】今井宗久の / (一一
七
)草部屋
道
雪
堺市史 第七巻
((一〇二)直道宗淨)
堺市史 第
七
巻 / (一〇二)直
道
宗淨 【大德寺出世】【南宗寺八十四世】宗淨字は直
道
、法を建宗義寅に嗣ぎ、文化
七
年正月大德寺第四百二十五世,(南宗寺歷世年譜)文政二年八月十
七
日世壽五十九歳を以て示寂した。(龍寶山大德禪寺世譜) / (一〇二)直
道
宗淨
堺市史 第七巻
((八八)千 道安)
堺市史 第
七
巻 / (八八)千
道
安 千
道
安は千利休の嫡男、始めの名は紹安、眠翁と號した。,【茶
道
を父に受く】茶湯を父に受けて妙手と稱せられた。,
道
安好みの茶室は、其蹇を隱さんためのもので、後世の範とすべきものではない。,(茶事談)慶長十二年二月十
七
日歿し、大德寺の塔頭聚光院に葬つた。法號を眠翁
道
徹居士といふ。,其前日利休が明日の用意は如何にと、
道
安の宅へ行つたが、恰も留守であつた。 / (八八)千
道
安
堺市史 第七巻
((二五八)今井道與)
堺市史 第
七
巻 / (二五八)今井
道
與 【堺の藥種商】今井
道
與は堺の町人で、田邊屋と稱し、藥種問屋を業とし、傍ら茶湯を能,(今井
道
與由緖書、寬政重修諸家譜卷第百八)【義弘
道
與を德とす】其後
道
與密に薩摩に下つて義弘に謁したが、,義弘の壽像を安置し、(今井
道
與由緖書)元和五年
七
月二十
七
日歿した。,(今井與
道
墓碑)家久之を聞き、
道
與の死後にも此處に來り、看坊を召して米穀などを給したこともあつた。,爾來扶持米は大阪藏屋敷から給付せられたが、明治維新後遞減し、明治
七
年には一石となつた。 / (二五八)今井
道
與
堺市史 第七巻
((三)本源院道祐)
堺市史 第
七
巻 / (三)本源院
道
祐 【眞宗寺開基】
道
祐は堺眞宗寺の開基で足利義氏の第四子祐氏と稱したと傳へてゐる。,幼にして父を喪ひ、母に從つて堺浦に徙り、薙髮して
道
祐と號し、始め天台を學び、【覺如の弟子となる】後本願寺覺如,(信證院眞宗寺略緣起、泉州志卷之一)後本源院と號し、興國
七
年六月十八日示寂した。享年九十三。,(眞宗寺略年表) 第一圖版
道
祐畫像 第一圖版
道
祐畫像 / (三)本源院
道
祐
堺市史 第七巻
((二九八)車屋道悅)
堺市史 第
七
巻 / (二九八)車屋
道
悅 【今春大太夫の門弟】車屋
道
悅は今春大太夫の弟子で、【車之町中濱に住す】堺車之町中濱,元は
七
十五番であつたのを、新に增補して百番の謠曲本としたと云はれて居る。 / (二九八)車屋
道
悅
堺市史 第七巻
((一二二)神南邊道心)
堺市史 第
七
巻 / (一二二)神南邊
道
心 【神南村の人】【燗鍋の鑄工】神南邊
道
心は俗名を彌兵衞と稱し、大和生駒郡神南村に,(神南邊大
道
心事蹟)大佛殿内賓都婁尊者の木像は、其寄進したものである。,(堺史談會誌第五號)【錫杖下賜】天保
七
年嵯峨御所より錫杖を下賜せられ、時の堺奉行よりは、念珠を寄與せられた,(堺史談會誌第五號、神南邊大
道
心事蹟)【墓所】旭蓮社境内に墳墓があり、石地藏の大座像に、神南邊大
道
心墳,【宅址】舊宅址は車之 町西二丁十
七
番地に當つてゐる。 / (一二二)神南邊
道
心
堺市史 第七巻
((七〇)一心)
堺市史 第
七
巻 / (
七
〇)一心 【堺人】一心は堺の人、鷹峰知足院日龍の
道
儀を慕ひ、師事して高祖日蓮の遺書及び天台止觀の,【日龍に學ぶ】日龍の歿後益々法化に力め、
道
譽頗る高かつた。 / (
七
〇)一心
堺市史 第七巻
((二五九)奈良屋道汐)
堺市史 第
七
巻 / (二五九)奈良屋
道
汐 【最初の絲年寄役】奈良屋
道
汐は慶長九年伏見城に於て、德川家康より絲年寄役を命ぜられた,(絲亂記、絲割符由緖書、元祿八年手鑑)【曼荼羅の奇瑞】傳へ云ふ、
道
汐は、日蓮宗の信者で、嘗て日蓮眞蹟の,(鯉の曼荼羅緣起)寬永
七
年四月二十八日歿し、諡して清波
道
汐といふ。 / (二五九)奈良屋
道
汐
堺市史 第七巻
((二七二)幽閑齋)
堺市史 第
七
巻 / (二
七
二)幽閑齋 【堺の華
道
家】幽閑齋は堺の隱士である。,(雅莚挿華圖)病弱の故を以て薙髮して和歌を學び、茶香兩
道
を嗜み、殊に抛入生花を好み、遂に奧祕を究めた。,【述作の書】又花
道
に著名なる人々の説くところを集錄し、花鈴集十帖となし、圖するに寫生、設色を以てした。,(雅莚挿華圖) 第
七
十
七
圖版 雅筵挿華圖 第
七
十
七
圖版 雅筵挿華圖 / (二
七
二)幽閑齋
堺市史 第七巻
((三七)燈譽)
堺市史 第
七
巻 / (三
七
)燈譽 【旭蓮社第十四世】燈譽良然は旭蓮社第十四世の住職である。,大德の聞こえ高く、老若男女其
道
譽に歸せざるものなく、人の喜捨するものがあると、盡く之を以て莊嚴の佛具に,燈譽亦歌
道
を好み、入洛して、堂上公卿に交り、吟詠を以て自ら娯みとした。,然るに公家の間に、歌
道
の偏執から其奏請を拒む者があつたが、遂に乙夜の覽に入り、兩卷共に勅點を附せられ、,(旭蓮社緣起)三社法樂和歌は、住吉百首の中勅點二十
七
首、玉津島百首の中御點二十五首、聖廟百首の中同二十
七
首 / (三
七
)燈譽
堺市史 第七巻
((一〇七)性海)
堺市史 第
七
巻 / (一〇
七
)性海 【萬福寺住職】性海一名
道
超、明和二年越中射水郡樂入寺に生れ、後堺萬福寺(現九間町東二丁,【西本願寺の勸學】
七
年五月學林始めて勸學職を置くに及び、擢んでられて其職に補せられた。,僧鎔の上足に柔遠、
道
隱の二哲があつた。,【堺空華學派の始祖】性海其門に學んで
道
隱、柔遠の學説を比較硏究し、遂に堺空華の一派を爲した。,天保九年正月享年
七
十四歳を以て示寂した。(眞宗學苑談叢後編)諡して乘誓院といふ。 / (一〇
七
)性海
堺市史 第七巻
((九三)篠 道甘)
堺市史 第
七
巻 / (九三)篠
道
甘 篠
道
甘(一に
道
耳に作る)は堺の人。,香
道
をよくし、又珠光に茶湯を習ひ、眞の臺子の法を受けた。,(茶事談、茶人系傳全集)【袋棚の由來】今茶家に用ふるところの袋棚は、
道
甘の香具棚に由來するものであると,(茶事談)
道
甘に愛玩の壺あり、翫賞のあまり、平常之を撫でさすりしたから、之を撫子と名づけたといふ。 / (九三)篠
道
甘
堺市史 第七巻
((八〇)北向道陳)
堺市史 第
七
巻 / (八〇)北向
道
陳 【荒木氏】北向
道
陳本姓は荒木氏。堺舳松の人。,茶湯を好み、法を空海に受けて其技に長じ、(茶人系傳全集)後之を千利休に傳へ、【茶
道
の宗匠】武野紹鷗の歿後宗匠,、
道
陳は吾は朝ばかり茶會をするから、西日の善惡は覺えないと答へたといふ。,(茶湯古事談)【名醫圓璡の外舅】
道
陳は亦名醫藥師院圓璡の外舅に當つてゐる。,第二十四圖版 北向
道
陳塔 第二十四圖版 北向
道
陳塔 / (八〇)北向
道
陳
堺市史 第七巻
((七)風間堂)
堺市史 第
七
巻 / (
七
)風間堂 元和の町割に引責屠腹した風間六右衞門の靈を安じた風間堂は、【所在】並松町六番地にある。,地は北之橋の北方一丁餘、
道
路の東側にあつて、土塀を繞した小堂である。,は後世追善の爲めに建てたものであるが、堂内安置の位牌は其後間もなく造られたもので、中央に不惜身命院殿
道
喜日妙大居士 / (
七
)風間堂
堺市史 第七巻
((七)光乘寺)
堺市史 第
七
巻 / (
七
)光乘寺 光乘寺は蘆原山と號し、【位置】少林寺町西二丁字五貫屋筋蒲鉾町にあり、眞宗本派本願寺末、,寺格上座特別二等、【開創】延德年中創立、
道
光の開基に係り、【本尊】本尊阿彌陀如來を安置してゐる。 / (
七
)光乘寺
堺市史 第七巻
((七八)松井宗誾)
堺市史 第
七
巻 / (
七
八)松井宗誾 【和氣氏の出】松井宗誾其先は醫家和氣氏に出で、其祖與次郞後醍醐天皇の時勅命を奉じて,代々與次郞を稱とし、後堺に移つて、醫を業とし、入
道
して宗誾と號した。,心を歌
道
に寄せ、古今傳授をも受けたといふ。(堺鑑下、全堺詳志卷之下) / (
七
八)松井宗誾
堺市史 第七巻
((四七)日諦)
堺市史 第
七
巻 / (四
七
)日諦 日諦は常光院と號した。壯年にして南都に游び、比叡山に登り、唯識教觀の奧旨を究めた。,【
道
三厚聘】美濃國主齋藤
道
三德風を聞き、禮を竭くして之を厚遇した。,卽ち美濃に安居すること數年、
道
三歿落の後、京都に隱棲した。堺の日珖其德操を崇め、招いて講經を請ふた。 / (四
七
)日諦
堺市史 第七巻
((一七〇)高志芝巖)
堺市史 第
七
巻 / (一
七
〇)高志芝巖 【堺の人】高志芝巖名は利貞、字は松年、號を嘿山、
道
號を芝巖、法諱を昭皓と稱した。,
道
號は黃檗南源禪師の命名である。,)【墓碑】晚年世務を絶ち、參禪して老を養ひ、享保十一年五月壽塔を南宗寺の塔頭本源院の兆域に建て、同十
七
年二月十一日享年
七
十歳 / (一
七
〇)高志芝巖
堺市史 第七巻
((七)向井領井)
堺市史 第
七
巻 / (
七
)向井領井 【所在】天平中行基向泉寺創立に際し閼伽井を祈つて得たと云はれてゐる向井領井は榎町土井牧場裏
道
,の西、卽ち竹内街
道
の畔にある井と稱してゐる。 / (
七
)向井領井
堺市史 第七巻
((七六)宗椿)
堺市史 第
七
巻 / (
七
六)宗椿 宗椿は堺の連歌師で、坂東屋と稱した。(明翰抄)牡丹花肖柏の門人である。,歌
道
に志深く、三條西實隆の知遇を受けた。 / (
七
六)宗椿
堺市史 第七巻
((七)今井屋敷址)
堺市史 第
七
巻 / (
七
)今井屋敷址 【所在】今井宗薰の屋敷は宿院町東二丁字有樂町にあつた。,今井屋敷賣渡證文、堺大觀) 屋敷は時代により多少境域の變遷はあるが、【元祿二年の狀態】元祿二年には當主
七
郞兵衞,尤も舊址北側一帶は軒並よりも北へ三尺八寸
道
路へ出張つてゐるのは、
道
路敷設の際屋敷地へ喰ひ込んだ爲めであらう,又舊址中央西寄を南北へ通じた幅員三間五寸の
道
路は大正五年御大典記念事業として附近に借家を建てた時設けたのである / (
七
)今井屋敷址
堺市史 第七巻
((二七三)信松齋一朝)
堺市史 第
七
巻 / (二
七
三)信松齋一朝 【堺の人】信松齋一朝(一に一蝶に作る)は堺の人、遠州流の挿花家である。,後江戸に出でゝ、茶花の兩
道
を眞實庵一齋に學んだ。,【遠州流の華
道
家門弟】淺草遠州花
道
の元祖本松齋一得は、一朝の門弟である。(大日本人名辭書) / (二
七
三)信松齋一朝
堺市史 第七巻
((七)向泉寺址)
堺市史 第
七
巻 / (
七
)向泉寺址 【所在】行基の開創したと云はれる向泉寺址は市之町東五丁字向井領町にある。,【元祿二年の境域】境域は元祿二年の堺大繪圖に市之町寺町筋にあつて東面し、東は
道
路を隔てて泉然寺、法行寺,、西は西方寺及び
道
路、南は眞如菴、北は阿彌陀寺に接した東側十四間半(新間十五間四尺二寸五分)西側六間半,(新間
七
間二寸五分)北側三十間(新間三十二間三尺)を有し、南側には多少の屈曲があつた。,是等舊址の地籍は市之町東五丁十五番地、二十四番地ノ
七
より十六番地迄の區域に相當する。 / (
七
)向泉寺址
堺市史 第七巻
((七)東光寺)
堺市史 第
七
巻 / (
七
)東光寺 東光寺は瑠璃山と號し、【位置】宿院町西二丁字五貫屋筋にあり、眞言宗御室派仁和寺末、寺格三等格院,、【開基】傳寬平
七
年化翁
道
者の開基である。,(東光寺調査書)東門には梟鳥、猛虎、竹林
七
賢、風鳥等の彫刻あり、左甚五郞の作と稱し取外して毘沙門堂に置 / (
七
)東光寺
堺市史 第七巻
((一七二)谷 忍齋)
堺市史 第
七
巻 / (一
七
二)谷 忍齋 【齋泉の弟】谷忍齋諱は通統、通稱を久右衞門といひ、善兵衞善德の二男で、善右衞門齊泉,(谷氏德惠傳)【有職故實に通ず】學和漢を兼ね、香花兩
道
に達し、壺井義知に就いて有職故實を學び、獨自の硏鑽,)【神佛崇敬】【各寺緣起の再興】寶永三年兄弟相謀つて、柳之町林昌守の客殿、方丈、庫裏等を改造し、享保
七
年向泉寺,忍齋在京の際卽ち享保十
七
年九月前者は誰が袖、後者は長月の銘を、日野前大納言資時に得、其記を作り、一を香木誰,(香木誰が袖の記、香木長月の記)【著作】有職故實及び花香兩
道
に關する謄寫の典籍頗る多く、別に官位令私考等 / (一
七
二)谷 忍齋
堺市史 第七巻
((七四)谷宗臨)
堺市史 第
七
巻 / (
七
四)谷宗臨 谷宗臨は名を守光といひ、通稱を善三郞と稱した。,又牡丹花肖柏の高足下田屋宗柳より古今集の奧旨を傳へ、劍
道
、馬術をもよくし、(神國和歌正流血脈之卷)茶湯,を千利休に學び、(數寄者名匠集)南宗寺の大林宗套に參禪して、大成の
道
號を附與せられ、呼雲齋大成宗臨居士,元和元年六月十
七
日享年五十八歳を以て歿した。,宗臨慶長六年十一月二十六日享年
七
十歳を以て歿した。(谷家系圖) / (
七
四)谷宗臨
堺市史 第七巻
((二〇七)津田呉一)
堺市史 第
七
巻 / (二〇
七
)津田呉一 津田呉一諱は基修、棕亭と號し、薙髮して宗壽と稱した(墓誌、日間瑣事備忘)家世々商賈,【堺の儒醫旭莊に學ぶ】【逍遙吟社の牛耳を執る】天保
七
年廣瀨旭莊來堺に際し、先んじて入門し、やがて八年旭莊,而も家
道
轗軻、加ふるに遊蕩に耽り、家産殆んど蕩盡せんとし、旭莊も亦屢々之を警しめた。,(日間瑣事備忘)【墓所】安政四年八月九日享年四十
七
歳を以て歿し、南宗寺の兆域に葬つた。 / (二〇
七
)津田呉一
堺市史 第七巻
((一三七)半井瑞直)
堺市史 第
七
巻 / (一三
七
)半井瑞直 半井瑞直幼名は彦六、後宗卜と稱し、牧菴又は卜養軒近思齋と號した。,【廣野
道
白の子】【俳號】廣野
道
白の子で、瑞菴子なきにより、養はれて家業を嗣ぎ醫となり、又和歌をよくし、 / (一三
七
)半井瑞直
堺市史 第七巻
((一三三)藤井道庵)
堺市史 第
七
巻 / (一三三)藤井
道
庵 【法橋
道
庵】藤井
道
庵諱は宗德、醫を業とし、法橋に敍せられた。,(明暗雙雙集卷之二、四、同拾遺)【子孫】元祿二年の堺大繪圖に、戎之町に藤井
道
庵の屋敷が見えて居るが、卽,ち藤井家は代代
道
庵を襲稱したものであらう。 / (一三三)藤井
道
庵
堺市史 第七巻
((九九)油屋道琳)
堺市史 第
七
巻 / (九九)油屋
道
琳 油屋
道
琳は堺の人、【利休門下】茶湯を利休に學び、(數寄者名匠集)天正頃の茶人として / (九九)油屋
道
琳
堺市史 第七巻
((八七)山岡宗無)
堺市史 第
七
巻 / (八
七
)山岡宗無 山岡宗無、諱は久永、幼名は捨十郞、後彌藏と稱し、南溪と號した。,(龍寶山大德禪寺世譜、茶人系傳全集)【宗無の男】男安室宗閑は紫野大德寺の第百
七
十六世となり、(麻野家系圖,(茶人系傳全集)【茶
道
の技】宗無は古風眞手の茶人で、此茶入には、此茶盌、此水指と、日常夫々工夫して定め,其日其夜の節に應じて思慮を囘らし殊に夜會に熟して、鮮かな手際を見せ、當時の第一人者として、禪の修養も亦其
道
を,(茶湯古事談)文祿四年
七
月十五日歿した。(淨得寺過去帳)末裔淺野信吉氏は大阪市に現住してゐる。 / (八
七
)山岡宗無
堺市史 第七巻
((一三七)土佐光純)
堺市史 第
七
巻 / (一三
七
)土佐光純 土佐光純は通稱源兵衞、
道
頓と號した。堺に住して畫を業とした。慶長年間の人。 / (一三
七
)土佐光純
堺市史 第七巻
((二七五)利玄)
堺市史 第
七
巻 / (二
七
五)利玄 利玄は日蓮宗の宗徒で、【圍碁の名手】亦圍碁の名手であつた。,翌十三年四月駿府に下り、十日
道
石と手合をした。 / (二
七
五)利玄
堺市史 第七巻
((七九)武野紹鷗)
堺市史 第
七
巻 / (
七
九)武野紹鷗 武野紹鷗名は仲材、幼名は吉野松菊丸、通稱は新五郞、(泉州龍山二師遺藁、大林和尚塔銘幷序裏書,講説を聞いて深く感ずるところあり、【茶湯に親しむ】遂に專ら茶湯に親しみ、(山上宗二記)歸堺の後は北向
道
陳,之を吉井藤左衞門入
道
了信に嫁がしめた際、銘宇起州の火筋を婿引手として贈つた。,(攝津名所圖會大成(浪速叢書第
七
輯所收)) 紹鷗の塔は、今井宗久が其二十五囘忌に當る、天正
七
年六月,(市之町人)小嶋屋
道
察、鹽屋宗悅、網干屋
道
琳(大町人)草部屋宗悅、石津屋宗嬰(大町人)伊勢屋宗滴、淡路屋宗和 / (
七
九)武野紹鷗
堺市史 第七巻
((二八四)一節道清)
堺市史 第
七
巻 / (二八四)一節
道
清 【鼓胴の工匠】一節
道
清は鼓の胴師である。,塗胴は鳴り劣るとて、
道
清の作品は、塗ることを止めて木地を用ひた。 / (二八四)一節
道
清
堺市史 第七巻
((一五三)宮尾道三)
堺市史 第
七
巻 / (一五三)宮尾
道
三 【宮尾流】宮尾
道
三は今春及連の家僕で、堺に來つて上源町(櫛屋町東二丁三丁に當る所,【
道
三の女】其女も之を見習ふて、茶具の製作に意を用ひ、新たに發明するところもあつた。 / (一五三)宮尾
道
三
堺市史 第七巻
((一五六)山本道策)
堺市史 第
七
巻 / (一五六)山本
道
策 山本
道
策諱は重、字は仲遠、靜齋と號した。,(墓誌)
道
策廣瀨旭莊と交り、詩文を能くした。 / (一五六)山本
道
策
堺市史 第七巻
((一〇三)高石屋道勺)
堺市史 第
七
巻 / (一〇三)高石屋
道
勺 高石屋
道
勺は通稱を長三郞といひ、堺の茶人で、武野紹鷗の門弟である。 / (一〇三)高石屋
道
勺
堺市史 第七巻
((一五四)三浦道齋)
堺市史 第
七
巻 / (一五四)三浦
道
齋 【鎌倉の人】三浦
道
齋諱は茂樹、復明醫窟の別號がある。,【堺施藥所に講說す】
道
齋亦傍ら禪を究め、聲名大に揚がり、又官命を奉じて其最も精通せる素問、難經の二書を / (一五四)三浦
道
齋
堺市史 第七巻
((四)北向道陳屋敷址)
堺市史 第
七
巻 / (四)北向
道
陳屋敷址 【所在】北向
道
陳の屋敷址は今の寺地町大
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東方にあつたと云はれてゐる。,(口碑)
道
陳屋敷は舳松にあつて北向であつたが故に氏を北向と云ひ、西日のさし入る屋敷であつた。 / (四)北向
道
陳屋敷址
堺市史 第七巻
((一七八)萬代文軌)
堺市史 第
七
巻 / (一
七
八)萬代文軌 萬代文軌字は隨浩、城門氏、克念齋、澄漪、又は樵翁と號した。,(河野進齋碑銘)【墓所】寬政九年六月十一日享年
七
十一歳示寂、法號を克念齋文軌
道
意といひ、(專稱寺法名記 / (一
七
八)萬代文軌
堺市史 第七巻
((二九六)喜多七太夫)
堺市史 第
七
巻 / (二九六)喜多
七
太夫 【喜多流謠曲の始祖】喜多
七
太夫は喜多流謠曲の始祖で、名は長能、始め八之丞と稱した,
七
歳の時能師勘太夫の弟子となり舞踊の妙を得た。,
七
太夫大阪夏ノ陣に、【大坂に籠城す】今春大太と共に籠城し、五月
七
日眞田幸村に從ひ、大太夫は騎馬、
七
太夫,は徒步で德川陣に亂入し、武名を擧げたが、落城後、大和に逃れ、後藝
道
を以て免され、【幕府に仕ふ】幕府に召抱,
七
太夫卽ち金剛流に自家獨得の型を立てた。 / (二九六)喜多
七
太夫
堺市史 第七巻
((七)今井宗薰)
堺市史 第
七
巻 / (
七
)今井宗薰 今井宗薰名は兼久、一に帶刀左衞門、(今井家由緖書、養壽寺今井家系圖、寬政重修諸家譜卷第二百二十四,)久胤と稱し、(今井氏
七
石碑銘幷系圖、今井家由緖書)單丁齋と號した。,(今井氏
七
石碑銘幷系圖)【茶湯の達人】茶湯を父に學んで奧儀を極め、豐臣秀吉に仕へて近侍となつた。,(紹鷗傳來
道
具譯書留寫今井彦右衞門家之覺書)織田長益其茶湯に通ずるの故を以て愁訴して釋され、【高野山遁竄,)寬永四年四月十一日享年
七
十六歳を以て卒した。 / (
七
)今井宗薰
堺市史 第七巻
((五七)鳥井駒吉)
堺市史 第
七
巻 / (五
七
)鳥井駒吉 鳥井駒吉は伊助(幼名秀吉、後伊助と改め、晚年に伊六と稱す)の二男で嘉永六年三月十二日生誕,是より先、【鐵
道
の建設】十五年又阪堺鐵
道
株式會社の創立を企て、十八年二月難波、大和川間、二十一年大和川,該鐵
道
は後年南海鐵
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株式會社に讓渡され、大阪、和歌山間の聯絡成るに及び、同社の取締役となり、後社長に推,十三年五月堺縣會議員に、十四年
七
月堺區會議員に當選し、次で議長となつた。,諡して興德院釋
道
顯といふ。最勝寺に墓碑がある。 / (五
七
)鳥井駒吉
堺市史 第七巻
((一七)善法寺址)
堺市史 第
七
巻 / (一
七
)善法寺址 【所在】俗に龍神堂と稱せられた善法寺は大濱通一丁にあつたが明治維新後廢寺となり、僅,最近阪堺電鐵
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の終點を置いた爲め移轉計畫もあつたが、舊域のまゝ南宗寺に附屬せしめる事になつた。 / (一
七
)善法寺址
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