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堺市史 第七巻
((一六)覺應寺)
(一六)覺
應
寺 覺
應
寺は正中山と號し、【位置】九間町東二丁字寺町にあり、眞宗本派本願寺末、寺格は本座一等,(覺
應
上人繪詞
傳
)當時寺地は北鏡屋町にあつたが、後現在の地に移轉した。,(覺
應
寺記錄)【本尊】本尊
傳
聖德太子作阿彌陀如來、【堂宇】本堂、庫裏、玄關、納家、土藏、座敷、長屋あり,(社寺明細帳)【什寶】什寶に
傳
聖德太子作後醍醐天皇御寄附本尊阿彌陀如來一軀、
傳
弘法大師作阿彌陀如來立像一軀,、
傳
春日佛師作藥師如來座像一軀、
傳
藤原佐理筆三島明神一幅、覺如上人筆阿彌陀如來畫像一幅、顯如上人筆同上一幅 / (一六)覺
應
寺
堺市史 第七巻
((四)覺應)
(四)覺
應
【覺
應
寺開基】覺
應
は堺覺
應
寺(現堺市九間町東三丁)の開基である。,後一念發起して正中元年九月上洛、【覺如の弟子となる】本願寺覺如に倚つて覺
應
の法名を授與せられ、歸國して,又日向宮崎の鄕を有緣の地として、同年十月一小寺を建立して覺
應
坊と名づけ、西陲の僻地にも法雨を濺ぎ、元德,(覺
應
上人繪詞
傳
) / (四)覺
應
堺市史 第七巻
((五九)應其)
(五九)
應
其
應
其始めの名は日齋、字は順良、後木食上人と呼ばれ、興山上人とも稱せられた。,幼少既に出塵して高野山に登り、天正元年十一月千手院谷の瀧城院に寄宿し、文殊院勢譽に就いて薙髮受戒し、名を
應
其,
應
其選ばれて開陳の任に膺り、秀吉に謁し、一山の畏服を説いて破却を免れんことを請ふに及び、秀吉其言を容れ,爾來秀吉大に
應
其を重んじ、同年六月後陽成天皇寺領寄附の綸旨を賜はるに當り、秀吉之に朱印を添へ、同月金堂,(續寶簡集五十四)同堂は空海入唐歸朝に際し、北莊九間町に着岸し、假堂を建てたところと
傳
へられ、其後空海 / (五九)
應
其
堺市史 第七巻
((二八)春浦宗熈)
(龍寶山大德禪寺世譜) 既にして
應
仁、文明の亂、紫野の伽藍悉く兵燹に罹り、【陽春庵來寓】戰禍を堺の陽春庵,明
應
五年正月十四日世壽八十八を以て示寂し(龍寶山大德禪寺世譜、本朝高
傳
傳
卷第四十二)松源院に葬つた。
堺市史 第七巻
((三〇)日祝)
應
永三十四年下總千葉郡に生れた。,にして京師に上り、(本化別頭佛祖統記)妙法を弘通し、やがて長享二年三月權僧正に陞り、(聞法山歷譜幷緣由
傳
記,)【頂妙寺開山】明
應
四年には道契厚き細川勝益の寄進によつて頂妙寺の開山となつた。,(本化別頭佛祖統記、佛心歷代師承
傳
、聞法山歷譜幷緣由
傳
記)
堺市史 第七巻
((一一)桃源宗悟)
(延寶
傳
燈錄卷第二十一)永德二年季秋、化緣將に終らんとするの日、其法嗣喬木堂、其畫像を作つて語を索めた,宗悟之に讚して「杜機吾喪我、
應
物渠是誰、縱有
傳
神妙、僧繇猶不知、昨夜長鯨呑海水、珊瑚枝上月華奇。」
堺市史 第七巻
((八)大安寺)
【沿革】
應
永元年德秀士蔭(
應
永三十二年六月九日示寂)の開創に係つてゐる。,(社寺明細帳)【
傳
説】方丈は納屋助左衞門の舊宅を移したと
傳
へられ、松永久秀玆に莅み、壯麗を歎賞したが、,、梅畫襖四枚、鶴畫襖七枚、同粘壁四箇所、同腰高障子二枚、松畫襖四枚は何れも、金箔押で、狩野永德の筆と
傳
へてゐる,就中松の畫は
傳
へて永德寓居の際之を作り旅裝を整へて東國に赴き、尾張鳴海驛で一枝の足らざるを想起し、忽ち,引返して描き添へたもので、【襖繪枝添の松と
傳
説】世に枝添の松と稱せられてゐる。
堺市史 第七巻
((三)大内義弘戰死址)
(三)大内義弘戰死址 大内義弘戰死址として
傳
へてゐる所は三箇所ある。,めに三樟樹を植ゑ、後其地に妙像院日后本行寺を建て、同寺三世日是義弘追福の爲めに元祿八年妙見堂を建てたと
傳
ふるにより,)以上三説は何れとも定められないが、俗説には本行寺説が有力で、妙見堂及び墳墓の傍に植ゑた老樟樹は今に
傳
はつてゐる,思ふに義弘最後の戰場は堺の北方より攻寄せた幕軍に對抗したのに(
應
永記)徵する時は北方に近い安井町に當る,【大内義弘の首塚
傳
説】又菅原神社境内東南隅の一小丘を義弘の首塚と稱してゐるのは別に根據のない
傳
説である
堺市史 第七巻
((四二)吉川惟足)
慶安四年七月鎌倉に隱栖して讀書し、翌五年堺に慈母の安否を訪ひ、刻苦して神書を吉田兼從に問ひ、終に印可を受け、明
應
三年,【吉田家返
傳
授】其後寬文十二年正月勅命を奉じて返
傳
授の爲めに、京に上り、講筵には吉田拾遺以下諸國の神官等九十餘人列席,(吉川視吾堂
傳
記(日本教育史資料九、國學者
傳
記集成)【著書】主なる著書に日本學則、神祇要編、神代卷家
傳
聞書,(國學者
傳
記集成)
堺市史 第七巻
((三六)安樂寺)
【開基】慶長二年十二月湛蓮社然譽
傳
應
の開創に係り、【本尊】本尊阿彌陀如來。
堺市史 第七巻
((三五)善宗寺)
【開基】承
應
三年實成坊良
傳
の開基で、(堺南北寺庵本末開基宗旨改帳)【本尊】本尊阿彌陀如來。
堺市史 第七巻
((九)季龍元筍)
【延命寺開山】十四歳鎌倉建長寺國一禪師太古世源の門に入り正平二十四(
應
安二)年六月武藏青梅に住吉山延命寺,(延命寺報告書)同寺には、同年攝津住吉社別當良鎭僧正から寄附した、厄除本地三十三體曼陀羅を
傳
へ、(厄除本地三十三體曼陀羅,(鐵坂棟札)文中二(
應
安六)年五月十二日享年九十五歳を以て示寂した。
堺市史 第七巻
((二一九)松江宗德)
(茶人系
傳
全集)隱逸を好み、清巖宗渭と交り深く、雅號は清巖の與ふるところ、江月宗玩は「明歷々、露堂々」,宗德曾て清巖の句、「渴來茶、餓來飯」と、「承
應
二年自笑書」の十三字を、釜の表面に鑄出せんとし、鑄物師信濃,【自在庵釜】釜は諸方の茶人模造して自在庵と稱し、茶具一切は堺泉屋長左衞門(法名良齋)の家に
傳
へたといふ
堺市史 第七巻
((二)妙光寺)
【沿革】
應
永中大内義弘創建し、山號は之に因んだものであるといふ。,(社寺明細帳)【義弘石棺の
傳
説】
傳
へて大内義弘戰死後舊寺址乾方に石棺を祕し、墳墓を築いたが、同家滅亡後廢頽
堺市史 第七巻
((二三)精進院日隆)
(諸宗祖師
傳
)
應
永二十二年京師に本能寺を剏建し、法華八品を立義し、弘通攝度し、之に唱和するもの漸く多かつた,(本興寺囘答書)本興寺開山堂に安置せる堺の佛工淨
傳
作日隆の木像は、明治三十七年國寶に編入せられ、(兩山歷譜,、大日本寺院總覽)前机亦堺名工の製作したものと
傳
へられ、彫琢の技見るべきものがある。
堺市史 第七巻
((九八)大休惠昉)
六歳同地木野村正福庵竺
傳
に就いて沙彌となり、享保十七年東福寺に象海の侍者となり、參禪尋究衆に超えた。,【大安寺講說】翌二年の春堺大安寺の請に
應
じて、大衆六百五十人を領し、英俊多く座下に集り、此より英名大に,(續日本高僧
傳
卷第八)
堺市史 第七巻
((二八八)成田三左衞門)
三左衞門召に
應
じ鳥籠を作り、黃漆を塗り、宗和の父出雲守可重(一に長重に作る)に上り、大に其技を賞讚せられた,(塗師
傳
)【製作の方法】製法材を批いて片として之を底板とし、曲げて周緣を造り、櫻の皮を以て綴つた、一種,(塗師
傳
)
堺市史 第七巻
((五八)眞光寺)
當寺はもと眞言宗に屬したものゝ如く、【沿革】承
應
三年中興開山廣蓮社深譽源阿
傳
了當北莊七良右衞門の所有地
堺市史 第七巻
((二七)本行寺)
【大内義弘の
傳
説】
傳
へいふ
應
永六年十二月二十一日の戰に義弘、現今の妙見堂祠畔荒凉たる竹藪に遁れて敗死した,奉仕するところとなり、内匠關ヶ原の役に從軍するに方り、鐵砲工匠庄右衞門に託し、遂に當寺に奉安せられたと
傳
へてゐる
堺市史 第七巻
((二二)正木林作)
【家道の挽囘に努む】爾來鋭意勤勉負債を償還し以て父の憂ひを解き、既にして慶
應
四年五月新地鄕の組頭となり,喜び、之を興さんことを建議し知事の許可を得、直に富戸に説いて義捐を募り、前後數千圓の資金を得、【養蠶
傳
習場創設,】十九年三月直に方違神社の附近に養蠶
傳
習場を創設した。,玆に於て養蠶製絲の業大に興り、
傳
習場開設以來未だ數年ならざるに、府下三州に於て年々成繭を得ること五千石,(正木翁碑)二十八年三月舊養蠶
傳
習場出身の有志功績を後世に
傳
へんが爲めに、碑を方違神社境内に建て、【偉功碑
堺市史 第七巻
((二二四)岸 紹易)
(茶人大系圖、茶家好古集覽、茶人系
傳
全集)【問秦庵襲稱】是より先き堺の醫人竹田楚竹も亦茶湯を極め、嘗て,至つて統絶え、門人金地院僧錄司滄溟深く之を憂ひ、紹易が野本氏と姻戚たる關係もあることゝて、推擧して其
傳
統,【一樹菴の
傳
統を繼ぐ】此より紹易は一樹菴と號し、野本家に
傳
へた茶儀の三代祕事を得て發明する所多く、名聲高,く、安永五年正月東叡山寬永寺の門主將軍家治を饗
應
の際には、茶席の陳設、點茶、割烹等盡く之を按配した。
堺市史 第七巻
((八七)山岡宗無)
、(麻野家系圖)茶湯を千利休に受け、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕へて四百石を領し、(山上宗二記、茶人系
傳
全集,(茶人系
傳
全集)藥仙寺を堺に剏建し、春屋宗園を請して第一世とした。,(龍寶山大德禪寺世譜、茶人系
傳
全集)【宗無の男】男安室宗閑は紫野大德寺の第百七十六世となり、(麻野家系圖,(茶人系
傳
全集)【茶道の技】宗無は古風眞手の茶人で、此茶入には、此茶盌、此水指と、日常夫々工夫して定め,置き、置合等も常住一樣であつたから、未熟の輩には見所少く、無興のやうに思はれたが、其日其夜の節に
應
じて
堺市史 第七巻
((一三九)尾和宗臨)
【大徳寺諸堂の再建】
應
仁、文明の亂大德寺兵燹に罹り、諸頭塔の未だ再建せられざるものが多かつた際に(龍寶山大德禪寺世譜,(龍寶山大德禪寺世譜)宗臨は貿易に從事した船舶の帆柱を大德寺の棟梁とし、船板は庫裏の腰板に使用したと
傳
へられて,(尾和宗臨畫像贊)實
傳
宗眞は偈を作り、一山を代表して其死を弔した。,(實
傳
和尚弔尾和宗臨偈) 第三十四圖版 尾和宗臨畫像 第三十四圖版 尾和宗臨畫像
堺市史 第七巻
((二三)成就寺)
【開基】
應
永十三年十月法光院日驗其師日
傳
の命を受け、來つて寺を建て法を攝、泉の間に弘通した。,(社寺明細帳)【什寶】什寶に多聞天黃金像一軀、
傳
嵯峨天皇宸筆紺紙金泥妙經八軸、明國皇子筆紺紙金泥無量品一册
堺市史 第七巻
((二五)一休宗純)
(紫巖譜略)母は藤原氏、
應
永元年正月元旦誕生した。後小松天皇の皇胤と
傳
へてゐる。,六歳の時京都安國寺に入りて侍童となり、後
應
永二十二年近江の堅田に赴き、【華叟に師事す】華叟に師事し、同二十七年五月鳴鴉,其間永享四年冬南江宗玩と携へて堺に來り、同七年亦在留し、既にして
應
仁、文明の際亂を避けて酬恩庵に入り、,(一休和尚年譜)
應
仁兵燹後、【宗臨と一休】尾和宗臨の外護を得、文明年中其佛殿を再興し、(尾和宗臨畫像贊
堺市史 第七巻
((三)長泉寺)
(長泉寺緣起)【本尊の來由】本尊阿彌陀如來は
傳
毘首羯磨作赤栴檀木三尺三寸の立像で、永觀二年七月九日僧奝然宋,、將來した佛像の一で、博多海濱の漁夫等結緣の爲め此處に一宇を造立して安置し、之を毘首羯磨堂と稱したと
傳
へてゐる,右繪像は祐故信者之を當寺第十世然蓮社宛譽に讓り、承
應
三年八月十五日檀越奈良屋心譽慶安の子慶嚴之を補裝したものである,(元祖上人眞影緣起、圓光大師行狀畫圖翼贊卷三十五)【開山の遺物】其他
傳
惠心僧都筆彌陀三尊一幅、巨勢隆賢筆釋迦,と十大弟子一幅、同涅槃像一幅、筆者不詳觀經曼荼羅一幅、圓光大師舍利塔一基、
傳
熊谷蓮生坊所持の鉦鼓、開山衆德恩冏着用
堺市史 第七巻
((五)小林久三)
市立大阪商業學校、慶
應
義塾等に學び、三十一年十二月、一年志願兵として步兵第八聯隊に入營し、三十四年三月,三十七年四月充員召集に
應
じ、後備步兵第八聯隊に入隊し、第五中隊附を命ぜられ、七月征途に就いた。,右手に軍刀を提げ、左手に日の丸の扇を翳し、部下を督勵せる折柄、敵の機關銃より續發せる彈丸腹部を貫き、
應
急手當,(日露戰役忠勇列
傳
)遣骨を長泉寺に葬り、法名を釋良導といふ。(戰死病歿者及遺族名簿)
堺市史 第七巻
((八)澄圓)
淨土
傳
燈總列祖
傳
卷之五、淨土系譜)元亨元年楚俊明極の來朝と共に、經論書籍數百卷を携へて歸朝した。,淨土列祖
傳
卷之五)天皇永一萬貫文を附して寶祚の延長、國家の安全を祈らしめ給ふた。,淨土列祖
傳
卷之五)永く綸旨を下して勅願所となし、【賜紫の榮に浴す】大阿彌陀經寺の號を賜はつた。,澄圓老齡九十五歳に及び、
應
安五年七月竟に鎭西流白籏の正統を法弟に
傳
へ、一日自ら肖像を刻し、亦眞影を畫き,(澄圓菩薩略
傳
)
堺市史 第七巻
((二六)日親)
(二六)日親 日親は
應
永十四年上總武射郡埴谷村に生る。,斯くして深き決心の下に
應
永三十四年上洛し、二月一條戾橋の邊に立ち、獅子吼を試みた。,(日親上人一代記
傳
)斯くして長享二年九月十七日世壽八十二歳を以て示寂した。,(日親上人德行記)【著書】著述に折伏正義記、埴谷抄、
傳
燈抄、一生修行記、本尊相承抄、本法寺綠起、御祈禱經抄
堺市史 第七巻
((一〇)汝霖良佐)
同六年赤松義則の請に
應
じて播磨の法雲寺を開堂し、又是歳義滿京都に覺雄山寶幢寺を剏建し、春屋を請じて其開山,(本朝高僧
傳
第三十七)
堺市史 第七巻
((三三)最勝寺)
政道本願寺蓮如に歸依して出家し、明
應
三年攝津住吉郡五箇庄杉本村に圓覺寺を建て、四世道了は顯如に隨ひ石山籠城,(社寺明細帳)【什寶】什寶に
傳
狩野永信筆六曲屛風片雙がある。
堺市史 第七巻
((五一)古溪宗陳)
(續日本高僧
傳
卷第十一)後南宗寺第五世となり、(南宗寺歷世年譜)天正十三年三月秀吉紀州の根來寺を征し、,
傳
法院を破毀して之を堺に移し、海會寺を再興した際にも、宗陳を請して開堂演法せしめた。,(續日本高僧
傳
卷第十一)同十四年秀吉は又萬歳山天正寺を舟岡山に創建せんとし、意見を徵したが奉行石田三成,古溪四使に對して無道を諭したが、
應
ぜざるに及び、古溪乃ち懷中から匕首を出していふ、法の衰替今此通りである,(續日本高僧
傳
第十一卷)
堺市史 第七巻
((二二)養叟宗頥)
(紫巖譜略、本朝高僧
傳
卷第四十一)次いで紀伊の贄川氏は德禪院を建て、養叟を請して第一祖とした。,(龍寶山大德禪寺世譜)後花園天皇召して禪旨を問はれ、
應
答其旨に契ひ、(紫巖譜略)康正三年九月特に宗慧大照禪師,(紫巖譜略、本朝高僧
傳
卷第四十一、龍寶山大德禪寺世譜)【陽春庵在住】享德三年堺の陽春庵に住し、道場とした
堺市史 第七巻
((七)乾峰士曇)
十四歳にして承天寺に入り、南山士雲に侍して、鎌倉の諸刹に遊び、
應
長元年南山に從つて東福寺に居つたが、去,(乾峰和尚行狀、本朝高僧
傳
第三十)元弘二年前太政大臣洞院公賢大檀越となり、【海會寺開山】堺に海會寺を創建,和尚其言の如く井を掘ると、清泉忽ち涌き出たと
傳
へられて居る。,(乾蜂和尚行狀、本朝高僧
傳
卷三十)
堺市史 第七巻
((一)妙國寺)
御製懷紙、日圜宛坊城大納言添狀)爾來勅願所の例格を守つて、【祈禱】每年正月祈禱執行、卷數を奉獻し、慶
應
の,然るに承
應
元年三箇寺の協議により永輪番制度に改めたが、頂妙寺日威輪番の際中山の衰頽を歎き、萬治二年永輪番制,其他
傳
傳
教大師作大黑天像一軀、日像作觀念宗祖の像一軀、宗祖日蓮筆本尊三幅、日朗、日像、日常、日親、日珖等筆,の本尊各一幅、日蓮書幅七、
傳
嵯峨天皇宸筆寫經一幅、
傳
伏見天皇御製和歌一幅、冷泉爲家筆細字三十六歌仙和歌一幅,へ寄附の内の古銅鈴一口、
傳
三好之康寄附具足一領櫃附、
傳
松永久秀遺物兜一領、
傳
加藤清正所持軍配一面、同朝鮮劒一口
堺市史 第七巻
((二三)大谷派堺別院)
(最勝寺由緖略記)北御坊に對して南御坊の稱あり、【舊寺家】寬永元年の記錄には、寺家に
傳
久寺、眞福寺、正信寺,助永の盛時は文永、建治、弘安、正
應
の二、三十年間に亙つて居るが、此鐘は恐らく正
應
年間に鑄造せられたものであらう
堺市史 第七巻
((七九)武野紹鷗)
【家系】(武野家系圖、泉州龍山二師遺藁、茶人系
傳
全集)武田信光の後裔で、祖父仲清は
應
仁の亂に戰死し、父信久,(堺鑑下)二十四歳、上洛して和歌を三條西實隆に學び、(堺鑑下、茶人系
傳
全集)四條夷堂の側に居り、夷大黑,(雍州府志卷八、堺鑑下、茶人系
傳
全集、武野家系圖)其雅號は演雅の詩に「江南水色碧二於天一、中有二白鷗閑似一,紹鷗は茶湯を此二居士に學び、(茶人系
傳
全集、堺鑑下)傍ら紫野の古嶽和尚に參禪した。,瀧澤馬琴の羇族漫錄に、當時鑰代として、錢百文を寺僧に與へると、則ち彼墓の參拜を許したが、
傳
へて諸人墓前
堺市史 第七巻
((二一二)半井卜養)
(半井家系圖)【松永貞德に學ぶ】【堺流の古今
傳
受を受く】俳諧を松永貞德に學んで、奧祕を究め、(半井家系圖,、俳家大系圖)堺流の古今
傳
を受け、和歌及び連歌を善くし、殊に狂歌を以て知られた。,(半井家系圖)將軍德川家光屢々之を江戸に召し、承
應
二年十一月には將軍德川家綱に召出され、(複刻卜養狂歌集附錄,江戸砂子に云々と記したのは、沾涼が
傳
聞の謬りで一書には「卜養は外科もすこしはいたす也うみぢを取つて跡はゐやしき
堺市史 第七巻
((二)臨江菴)
傳
へいふ、織田信長堺の魚市に重税を賦課したが、時の十人衆は其命令に服せなかつたので信長之を安土に召して,(全堺詳志卷之上)【乳守社と
傳
説】境内に乳守社がある。,俗説には
應
神天皇に乳を奉つた神を勸請したものであると云ひ、又此處の地主神を祭祀して、津守明神と崇信したが
堺市史 第七巻
((一)開口神社)
然し此後漸く荒廢に歸し、
應
永三十二年閏六月再造の功を竣め、七月初めには立柱式を擧行した。,瑞森の井上に堂宇を造り、
傳
行基所作の藥師を安置した。,(谷氏德惠
傳
)而して、神輿及び神具は寬政七年氏子等の寄附により、更らに新調せられた。,社
傳
將軍足利義稙の寄進にかゝると
傳
へてゐる。,其他
傳
土佐光起筆聖武天皇畫像一幅、同光明皇后畫像一幅、
傳
信實筆菅原道眞畫像一幅、正親町公通自畫贊茄子繪一幅
堺市史 第七巻
((九)顯本寺)
(高三過去帳)偶々大隅種ヶ島西之表藏の律僧(或は法相宗とも云ふ)の碩德、義賢坊林
應
南都北嶺に學び、將に,林
應
、後日、隅、薩の三州に亙つて百有餘箇の寺院を興こし當寺に屬せしめたが、後擧げて本能、本興兩山に攝屬,元長の血痕は其後久しく殘存して居たと
傳
へられてゐる。,(社寺明細帳)【什寶】什寶には刑部少輔、以下の各禁制狀、安宅冬康書狀、織田信長朱印狀、蓮如消息二幅、
傳
豐臣秀吉所用茶辨當一揃等
堺市史 第七巻
((一六八)三宅寄齋)
(先哲叢談後編卷之一)又神書に通じ、和歌をよくし、千宗旦の門に入つて茶湯を修め(茶人系
傳
全集、茶家好古集覽,【公卿諸侯待つに賓師の禮を以てす】寄齋歳四十を踰えて、其學に就くもの益々多く、近衞信尋(
應
山)を始め、,藤堂、黑田、伊達、津輕、板倉の諸侯皆賓師の禮を以て之を遇し、之を聘用せんとする者があつたが、皆辭して
應
ぜず
堺市史 第七巻
((一五七)牡丹花肖柏)
肖柏直ちに筆を把つて「くちなしの花のいろはやうつすらむ」と、附句を書いて、之に示したと
傳
へられて居る。,新續古今より、伊勢物語、代々の歌集に至るまで、悉く之を究めて、奧祕に通じ、(本朝通記後編二一)遂に古今集の
傳
授,【堺古今箱
傳
授】肖柏之を堺の門弟に
傳
へたものを、堺古今箱
傳
授と稱してゐるのは、晚年居を堺に移したからである,又肖柏後に至り之を奈良の林宗二(宗二は林逸と稱し、法名を桂室宗二居士といふ)に
傳
へたものを奈良
傳
授といふ,【三條西實隆等との
應
酬】某年四月三條西實隆が、高野參詣の途、堺南庄光明院に止宿の際、彼此相訪問し、五月朔日同院
堺市史 第七巻
((一九)了覺寺)
堺鑑中)元和年中第二世存譽宗嚴の時寺號を授與せられ、後寺觀漸次衰頽に傾いたが、寬文年中第六世則蓮社是譽運
應
法燈,(社寺明細帳)【什寶】什寶に圓光大師水鏡影像一軀、【眼代の地藏】
傳
聖德太子作阿彌陀如來像一軀及び俗に眼代
堺市史 第七巻
((二九)圓二坊賢知)
(二九)圓二坊賢知 圓二坊賢知は
傳
楠木正成の嫡孫、左馬頭正勝の子で、大和十津川に生れ、太郞左衞門正吉,【金胎寺城防守】楠木兄弟之に
應
じて金胎寺城に據り、軍威大に振ふた。,寺
傳
にいふ、遷化の年、異朝の畫工來朝して同寺に詣り、圓二坊の影像を描いた。
堺市史 第七巻
((一五)竹田藥師院○昌慶以下歷代)
【善慶】其子善慶は
應
永十九年後小松天皇を醫療し奉り法眼に敍せられ、同二十八年稱光天皇御不豫に際し、醫藥,【昭慶】昭慶は長祿二年大聖院宮の病を治めて法眼に敍せられ、
應
仁二年將軍足利義政を醫療して法印に進められた,【圓俊居を堺に移す】堯慶の子圓俊高定に至つて、始めて堺に居を移し、家聲益々揚がり、明
應
元年三月後土御門天皇,【圓三】藥師院圓三は若冠より京都に遊び、名醫の門を敲いて硏鑽怠ることなく、又諸儒の門に出入して、紀
傳
明經
堺市史 第七巻
((一一五)谷善右衞門)
門人多きが中にも、京都の石田半左衞門、堺の長泉庵順道、海野藤右衞門、花屋市兵衞の子市兵衞等は、皆其奧技を
傳
へたものである,(谷氏德惠
傳
)【堺港灣修築】同十二年其女壻戎之町布屋次兵衞、戎島に防波堤を築き、船舶の入津を容易ならしめんと,大阪奉行所の支配に歸したから、大阪奉行所は、堺町中に對して、此事業の繼承者を求めたが、皆事を危ぶんで、之に
應
ずるものがなかつた,、一旦之を辭退したが數度の慫慂に止むことを得ず、遂に意を決して事に當り、(堺戒島石堤之記錄、谷氏德惠
傳
),【墓所】法名を自ら大融齊泉善惠法師と號し(谷氏德惠
傳
)柳之町東二丁林昌寺に墓碑を定めた。
堺市史 第七巻
((四二)日辰)
既にして此年駿河の本門寺に日心を訪ひ、富士一流の所
傳
を敲いて得るところあり、翌四年五月歸山した。,現中之町東三丁)の佛壽坊日現が、【法戰諭難】再び三箇條の難問書を送つて其囘答を追つたが、一々義理整然たる
應
酬,永祿元年東國教化の爲め甲斐を巡錫し、十月本門寺に登つて此處に越年し、二年三月府中の成田宗純の邸に駐錫して、宗風の宣
傳
に
堺市史 第七巻
((一)鹽穴寺)
新在家町東四丁字寺町にあり、【沿革】眞言宗御室派仁和寺派で、寺格三等格院、元明天皇の勅願所、僧行基の開創と
傳
へ,然るに
應
仁の亂實相院を殘して荒敗したので、本尊を實相院に安置した。
堺市史 第七巻
((二九六)喜多七太夫)
(猿樂
傳
記上、能樂全史)當時金剛の主右京猶ほ幼少であつたが、後見金剛座附の脇師高安太郞右衞門、七太夫の,【喜多流の公許】喜多流として一座を許されたのは元和四年で、承
應
二年正月七日卒去した。
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