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堺市史 第七巻
((三)三好元長)
(三)三好
元長
三好
元長
(一に長基に作る)は長輝の子、筑前守と稱した。,是に於て二月
元長
は堺に入つた。,而も諸將多く
元長
を晴元に讒したので、
元長
は畠山義英等と謀り、堺の南莊に據り、天文元年正月剃髮して海雲(,に求め、六月には一揆大擧して義宣を討ち、更らに
元長
の陣所南莊を攻むるに及び、【
元長
の慘敗】遂に慘敗して,第三圖版 三好海雲(
元長
)墓 第三圖版 三好海雲(
元長
)墓 / (三)三好
元長
堺市史 第七巻
((五)三好元長戰死址)
(五)三好
元長
戰死址 【所在】三好
元長
自刄の場所は甲斐町東一丁字山之口筋附近に當ると推定される。,【顯本寺址】卽ち
元長
が最後の地たる當時の顯本寺(現在中之町東三丁)は三好記に大寺(開口神社)の神慮を憚 / (五)三好
元長
戰死址
堺市史 第七巻
((一三)足利義維)
阿波の細川澄元の許にあつたが、三好
元長
兵を率ゐて、義維及び細川晴元を奉じて入京せんとし、大永七年三月同勢堺,(足利季世記)後
元長
は晴元に疎んぜられ、享祿五年六月顯本寺に自刄した。
堺市史 第七巻
((一一)齋藤寬治)
(一一)齋藤寬治 寬治始めの名は
元長
、三郞右衞門尉と稱した。,(寬政重修諸家譜卷第六百八十二、墓誌)【堺隱栖】是に於て
元長
堺に來つて隱栖し、名を寬治と改め、十六年三月壽塔
堺市史 第七巻
((九)顯本寺)
(兩山歷譜、大日本寺院總覺)享祿五年本願寺の門徒細川晴元に黨して、【三好
元長
の自殺】三好
元長
を堺に攻め,六月
元長
戰ひ利あらず、當寺に入つて自殺した。,
元長
の血痕は其後久しく殘存して居たと傳へられてゐる。,【墓碑】境内三好
元長
の墓碑は、高さ二尺の五輪塔で、表面に歸本海雲善室大居士、裏面に天文二癸巳六月二十日
堺市史 第七巻
((七)安宅冬康)
(阿州將裔記)三好
元長
の三男で、長慶及び義賢(實休)の弟に當る。,翌五年三月實休は久米田に陣したが陣中に於て、夢に祖父之長(喜雲)が父
元長
(海雲)と同列で、
堺市史 第七巻
((八)三好長慶)
十歳の時、父
元長
顯本寺に自殺し支族三好宗三及び松永久秀等の補佐するところとなり、天文八年十七歳にして兵,是より先き、同族宗三權を擅にして父
元長
を攻殺したので、長慶は之を郤けんとし、屢々之を細川晴元に請ふたが,三好長慶墓碑(京都市大德寺聚光院墓地) 長慶大林に參禪して深く禪要を究め、弘治二年父
元長
追福
堺市史 第七巻
((二)三好長輝)
然し長輝は未だ全く其落成を見るに及ばなかつたが、其子
元長
の代に至り、輪奐の美殆ど成り、【堺政所】大永元年三月,斯くして
元長
の歿後、長慶、義興、義繼の三代相繼いでこゝを治所としたと云はれてゐる。
堺市史 第七巻
((五)三好義賢)
(五)三好義賢 三好義賢(一に之虎、或は元康、又は之康に作る)は
元長
の二子で、長慶の弟に當る。
堺市史 第七巻
((四)三好政長)
元長
の子長慶は亡父の仇敵として宗三と善からず、やがて兩者の不和となり、細川晴元は宗三を援け、長慶は長教
堺市史 第七巻
((四一)大林宗套)
(大林和尚禪師號宸翰)三好長慶崇敬深く、弘治二年先考
元長
の爲めに南宗菴を改築し、巨刹を建て菴を改めて寺
堺市史 第七巻
((一)南宗寺)
南宗君祠は父
元長
の靈を祀つたものであらう。,同三年五月河、泉兩州にて油田三萬石を寄進し、内外の結構略々成るに及び、六月(細川兩家記に據る)海雲(
元長
堺市史続編 第六巻
([み])
41,42 三好徳次郎 3-39 三好政康 1-410 三好宗三 1-409 三好
元長
堺市史 第七巻
(插入圖版目次)
・・・・・・・・五 第二圖版 季龍塔 (埼玉縣青梅町延命寺境内)・・・・・・・・一三 第三圖版 三好海雲(
元長
堺市史 第七巻
(目次)
二二 武人 (一)大内義弘・・・・・・・・二二 (二)三好長輝・・・・・・・・二二 (三)三好
元長
,三 (三)大内義弘戰死趾・・・・・・・・八〇七 (四)大小路・・・・・・・・八〇八 (五)三好
元長
戰死趾
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