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堺市史 第七巻
((八四)千利休)
(八四)千
利休
千
利休
名は宗易、始め納屋與四郞といひ、抛筌齋
利休
居士と號した。,(和泉名所圖會卷之一)【舊邸】今市町(現宿院町西一丁)の
利休
の舊宅址に椿井があり、
利休
は茶湯に常用したと,を
利休
松といつた。,(
利休
茶湯百會席帳) 第二十六圖版 千
利休
木像 第二十六圖版 千
利休
木像 ,第二十七圖版 千
利休
書狀 第二十七圖版 千
利休
書狀 第二十八圖版 實相菴 / (八四)千
利休
堺市史 第七巻
((八)千利休屋敷址)
(八)千
利休
屋敷址 【所在】千
利休
屋敷は宿院町西一丁字中濱東側にあつた。,併し
利休
は信長、秀吉に仕へてからは堺に在住する日は少かつたであらう。,(元祿二年堺大繪圖)【舊址】同町四番地辻本英一氏住宅は其舊址と云はれ、
利休
當時の椿井、六地藏の石燈籠、,【
利休
好の茶室】
利休
好の茶室は庭園の東にあつて、西側北端にニヂリ口があり、二疊臺目の茶室につゞいてゐる,「 懷 舊 加賀田氏傳領
利休
宗易居士最初所住之地、弘化二年當主懷舊之餘造一室欲煮松風、 余聽歎喜號之 / (八)千
利休
屋敷址
堺市史 第七巻
((一〇九)南坊宗啓)
宗啓禪旨を究むると共に、【南坊茶湯の祖】茶湯を
利休
に學んで、其奧義に達し、遂に臺子の法を始めとして、種々,又向爐、切爐のことに就いては、
利休
と論議し、褒詞をさへ受けたこともあつた。,斯くして
利休
門人中の第一人者として、遂に
利休
をして、吾が歿後に至り、兒孫にして若し茶湯の師を求めんとするものあらば,、宗啓より他に其人はないとまで、【
利休
の推稱】推稱せしむるに至つた。,然も宗啓自ら清貧に安んじ、名器とてはもとより、露地さへもなき、集雲菴三疊の茶室に、再三
利休
を招いて茗讌
堺市史 第七巻
((一〇六)福阿彌)
(一〇六)福阿彌 福阿彌は堺時宗の僧侶で、【
利休
門下】茶技を
利休
に學んだ。,或はいふ、
利休
一日福阿彌の住する寺院客殿の緣三疊を圍んで數寄に擬し、始めて茶を點じたことがあつた。
堺市史 第七巻
((九〇)千 宗淳)
(禪餘小記)【
利休
の二子】
利休
の第二子で、母は繼室宗音尼實は連子であるといふ。,(千與吉より實相院宛覺書)父の罪に坐して、蒲生氏鄕に預けられたが、後赦されて京に歸り、秀吉から
利休
の舊宅及,(明良洪範卷二十)
利休
筆不審庵の大字の額字は萬代屋宗貫が所持して居つたが、宗淳は之を堺の鹽穴寺へ寄附した,(茶人大系譜、茶事談、茶人系傳全集、茶家系譜詳本)母宗音は堺宮尾道三の女で、數寄の才あり、
利休
の後妻となつたのである
堺市史 第七巻
((九七)辻 玄哉)
(數寄者名匠集)【
利休
に臺子の法を傅ふ】豐臣秀吉始めて千
利休
に臺子の茶湯すべきよしを命じた際に、
利休
は
堺市史 第七巻
((八八)千 道安)
(八八)千 道安 千道安は千
利休
の嫡男、始めの名は紹安、眠翁と號した。,一日
利休
が、露地を越えて、此石は二步引けばよいとつぶやいたのを、隱し置いた人から聞いて、次ぎの日には其石,を二步程引いて置いたのには、
利休
も其敏捷さに感じたといふことである。,(喫茶指掌編三)又春の末道安方へ
利休
が蒲生氏鄕、細川三齋、柴山小兵衞等を茶會に招いた。,其前日
利休
が明日の用意は如何にと、道安の宅へ行つたが、恰も留守であつた。
堺市史 第七巻
((九九)油屋道琳)
(九九)油屋道琳 油屋道琳は堺の人、【
利休
門下】茶湯を
利休
に學び、(數寄者名匠集)天正頃の茶人として
堺市史 第七巻
((一二六)天王寺屋東室)
(一二六)天王寺屋東室 天王寺屋東室は堺の茶人で、【
利休
門下】茶湯を
利休
に學んだ。
堺市史 第七巻
((一二八)伊丹屋紹無)
(數寄者名匠集)茶湯を
利休
に學んだ。(茶事談、數寄者名匠集)家富み、多くの名器を所藏してゐた。,御物名物記に、
利休
作筒の花入、銘尺と稱するものを藏したが、此花入は後に海部屋市左衞門の手に歸したと見えてゐる
堺市史 第七巻
((八五)津田宗及)
曾て宗及が細川三齋と
利休
とを茶會に招くことを約した。,
利休
は三齋に向つて、かゝる時には早く參會すべきものとて、夜を侵し三齋を促して之に赴いた。,
利休
挨拶して香爐をおろし、香を聽き、之を三齋へまはし、香名を尋ぬると、月と答へた。,
利休
も亦香を取出し、それを焚いて居る。暫くして水屋の中門を敲くものがある。,三齋が
利休
に、此茶湯少しも瑕はないかと問ふたら、
利休
は難をいはゞ、香に月を焚くことは、月と雪との緣少しく
堺市史 第七巻
((一〇三)高石屋道勺)
(全堺詳志卷之下)【
利休
の手水鉢】又曾て
利休
の所持した四方佛の手水鉢を所有したが、後材木屋嘉兵衞の有に
堺市史 第七巻
((一五三)宮尾道三)
又千
利休
に從ひ、茶湯にも通じた。,女は後
利休
の室となつたが、短檠の柱の持所の手懸に、燈心を持たせなどして時人に其作意を感ぜしめたといふ。
堺市史 第七巻
((九八)山上宗二)
茶湯を
利休
に學び、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕へた。,又慈鎭和尚の和歌に「けかさしとおもふ御法のともすれは世わたるはしとなるそかなしき」とあるを引いて、師
利休
,は常に此和歌を口吟んだが、
利休
のみならず、茶湯を以て生活の道を立つることの恐ろしさを示した。
堺市史 第七巻
((六)廢集雲菴)
(堺鑑下)第二世南坊宗啓は千
利休
の高弟で、當菴三疊の茶室には屢々茗讌開かれ、天正十三年九月
利休
と共に、
堺市史 第七巻
((一二二)萬代屋宗安)
(一二二)萬代屋宗安 萬代屋宗安は
利休
の女婿で、一咄齋と號した。堺の富豪である。,(慶長見聞集)【男與四郞】其子與四郞は卽ち
利休
の外孫で、茶湯を以て有馬侯に仕へた。
堺市史 第七巻
((八七)山岡宗無)
【劒を上泉秀綱に學ぶ】劒を上泉秀綱に學び、(麻野家系圖)茶湯を千
利休
に受け、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕,(南坊錄)或時三齋、
利休
と共に、宗無の茶會に行つたが、始めのいりに亭主出でゝ、不存寄名水到着仕候とて釜,其間に
利休
は、棚にあるふくべをおろし炭を直した。
堺市史 第七巻
((二)織田長益)
(寬政重修諸家譜卷第四百九十二、野史卷六十七) 【茶湯を
利休
に學ぶ】長益始め茶湯を千
利休
に學び、傍,ら禪旨を究め、
利休
歿後は斯道の宗匠と稱せられた。
堺市史 第七巻
((一四七)宗鐵)
千
利休
の頃から、專ら數寄屋の鐵物細工を仕上げ、名人の譽が高かつた。(堺鑑下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((一二三)水落宗意)
(一二三)水落宗意 水落宗意は堺水落町の茶人で、
利休
の門人である。
堺市史 第七巻
((一一〇)油屋常悅)
(一一〇)油屋常悅 油屋常悅は堺の人、
利休
の門人である。
堺市史 第七巻
((一五一)中西西順)
中西西順 【裱裝の名工】中西西順は大和笠置の人、(堺鑑下、全堺詳志卷之下)裱裝の名人として聞こえ、
利休
堺市史 第七巻
((一〇一)石橋良叱)
茶湯を
利休
に學んだ。良叱の子に道古あり、道古の子長左衞門に至つて、居を宿院に徙した。
堺市史 第七巻
((一二〇)薩摩屋宗仁)
(一二〇)薩摩屋宗仁 薩摩屋宗仁は堺の茶人で、
利休
の門弟である。
堺市史 第七巻
((二八三)甫竹重右衞門)
(數寄者名匠集)【茶杓の名工】茶杓細工の名人で、其技は千
利休
から傳授せられたといはれて居る。
堺市史 第七巻
((七四)谷宗臨)
又牡丹花肖柏の高足下田屋宗柳より古今集の奧旨を傳へ、劍道、馬術をもよくし、(神國和歌正流血脈之卷)茶湯を千
利休
,然るに天正中笑嶺和尚のとき、千
利休
の斡旋により、宗臨の有に歸した。
堺市史 第七巻
((一)南宗寺)
【實相庵】實相庵は
利休
好みの茶席で、一、三、五の奇數月には二十八日の
利休
忌日に、二、四、六の偶數月には,十九日の宗旦忌日に茶會を催し、殊に
利休
正當忌の二月二十八日には盛大なる茶會が行はれる。,ずる飛石傳ひに露路口を入れば、右に待合、左に向泉寺傳來の袈裟形の手水鉢を見、更らに右にニヂリ口、西南に
利休
好六地藏,床の東側の壁には
利休
當時の儘と稱する壁を瓢形に殘し、落掛には俊寬が鬼界ヶ島より流した卒塔婆とも、空海筆蹟,實相庵實測圖 【南宗寺墓地】南宗寺墓地は天慶院及び海會寺の東方にあつて牡丹花肖柏、武野紹鷗、千
利休
等
堺市史 第七巻
((一二一)重宗甫)
(茶事談、茶人系傳全集)
利休
の門人で、(數寄者名匠集)茶湯を以て豐臣秀吉に仕へた。
堺市史 第七巻
((二八)淺尾弘昌)
蓋し茶宗
利休
墓跡の存するが爲めであらう。(墓誌)
堺市史 第七巻
((一七)堺春慶)
【子孫】其子孫は茶人千
利休
の頃まで、堺に居住したといはれて居る。
堺市史 第七巻
((五一)古溪宗陳)
既にして天正十八年赦に會して大德寺に歸つたが、同十九年二月、三十年參究の徒である千
利休
、秀吉の旨に忤ひ,自刄を命ぜられ、【大德寺破壞一件】嘗て
利休
が大德寺の山門に自己の彫像を安置せる僭越を憤り、德川家康等の
堺市史 第七巻
((八〇)北向道陳)
茶湯を好み、法を空海に受けて其技に長じ、(茶人系傳全集)後之を千
利休
に傳へ、【茶道の宗匠】武野紹鷗の歿後宗匠
堺市史 第七巻
((二二〇)隱岐宗沕)
此筒は武藏、相模兩國の境界に於て之を切り、よつて兩國と命名されたので
利休
の判並びに添狀があつた。
堺市史 第七巻
((八)大安寺)
(雲萍雜誌卷三)【庭園】方丈の庭園には千
利休
の時雨井及び虹手水鉢と云はれる
利休
好の棗形手水鉢あり、【什寶
堺市史 第七巻
((一五八)曾呂利新左衞門)
(堺鑑下)香技を志野宗心に受け、又茶湯を千
利休
に學んだ。或は紹鷗の門下とも云はれて居る。
堺市史 第七巻
((一二九)土佐光吉)
(久翌居士位牌)主なる作品には翁三番叟二幅、天神像、秋野日月屏風、春屋贊の
利休
像等がある。
堺市史 第七巻
((一)鹽穴寺)
【實相庵移轉】又千
利休
の茶室實相庵があつたが、南宗寺に移轉せられた。
堺市史 第七巻
((五八)清巖宗渭)
(工畫便覽、續本朝畫史卷下)清巖曾て自畫の如意に贊して曰ふ、「丿貫が丿、
利休
が利、かゆいところへ手のとゞくまで
堺市史 第七巻
((一四三)納屋助左衞門)
秀吉大に喜んで、大阪城西の丸の廣間に陳列し、
利休
等とも計つて、之を上中下の三級に區分し、各々其價格を附
堺市史 第七巻
((八六)今井宗久)
豐臣秀吉に仕へ、同十三年北野の茶會には宗久所藏の茶器は第四位を占めた(堺鑑下)【三名匠の一人】當時千
利休
及
堺市史 第七巻
((一四)養壽寺)
(宗圓山養壽寺一式常住之覺)【庭園】猶千
利休
作で、今井宗久遺愛龜形の庭と傳へらるゝ小園が殘されてゐる。
堺市史 第七巻
((一〇)慈光寺)
【墓碑】墓地には伊東義祐、千
利休
及び畫家森井鵬洲等の墓碑がある。
堺市史 第七巻
((八)妙國寺蘇鐵)
(堺大觀)周圍五丈六尺餘、高さ二丈餘、大枝三十九本、小枝八十八本を有し、株下、東北隅に
利休
好六地藏の石燈籠一基
堺市史 第七巻
((七九)武野紹鷗)
織田信長丹羽長秀を使者として、一覽するよしの命を傳へしめ、後之を返還したが、北野大茶湯に、
利休
此ことを
堺市史 第七巻
(插入圖版目次)
・・・・・・・・一一六 第二十五圖版 春屋香語 (京都市龍光院所臟)・・・・・・・・一一七 第二十六圖版 千
利休
木像, (京都市大德寺所藏)・・・・・・・・一一九 第二十七圖版 千
利休
書狀 (個人所藏)・・・・・・・・
堺市史 第七巻
((一)南宗寺)
同菴は千
利休
が、鹽穴寺に造設以來既に久しく荒廢して、殊に明治初年の交には、屋宇壞れ、壁落ち、復修理を加,爾來一、三、五の月には二十八日の
利休
忌、二、四、六の月には十九日の宗旦忌に茶會を催すことを例としてゐる,【墓碑】墓地には牡丹花肖柏、武野紹鷗、千
利休
並に千家一門の塔、茶宗隱岐宗沕壽碑、堺奉行贄安藝守正壽、中村一數
堺市史続編 第六巻
([せ])
堺工場 3-690 泉然寺(市之町) 2-1107 銭納の展開 1-347~349 千
利休
堺市史続編 第六巻
(第二編 国際的工業都市・百万大都市をめざして)
周年記念祝賀…430 南蛮行列…431 屋台とながし…432 堺製品ショー…432
利休
堺市史 第七巻
(目次)
(八二)油屋常祐・・・・・・・・一一七 (八三)松江宗訥・・・・・・・・一一八 (八四)千
利休
,(六)松江宗訥屋敷趾・・・・・・・・八五二 (七)今井屋敷址・・・・・・・・八五二 (八)千
利休
屋敷址
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