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堺市立中央図書館/堺市史

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堺市史 第七巻 ((八四)千利休)

(八四)千利休 千利休名は宗易、始め納屋與四郞といひ、抛筌齋利休居士と號した。,(利休茶湯百會席帳) 第二十六圖版 千利休木像 第二十六圖版 千利休木像    ,第二十七圖版 千利休書狀 第二十七圖版 千利休書狀     第二十八圖版 實相菴 / (八四)千利休
堺市史 第七巻 ((八)千利休屋敷址)

(八)千利休屋敷址 【所在】千利休屋敷は宿院町西一丁字中濱東側にあつた。 / (八)千利休屋敷址
堺市史 第七巻 ((一四七)宗鐵)

千利休の頃から、專ら數寄屋の鐵物細工を仕上げ、名人の譽が高かつた。(堺鑑下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻 ((九七)辻 玄哉)

(數寄者名匠集)【利休に臺子の法を傅ふ】豐臣秀吉始めて千利休に臺子の茶湯すべきよしを命じた際に、利休は
堺市史 第七巻 ((二八三)甫竹重右衞門)

(數寄者名匠集)【茶杓の名工】茶杓細工の名人で、其技は千利休から傳授せられたといはれて居る。
堺市史 第七巻 ((一五三)宮尾道三)

又千利休に從ひ、茶湯にも通じた。
堺市史 第七巻 ((七四)谷宗臨)

又牡丹花肖柏の高足下田屋宗柳より古今集の奧旨を傳へ、劍道、馬術をもよくし、(神國和歌正流血脈之卷)茶湯を千利休,然るに天正中笑嶺和尚のとき、千利休の斡旋により、宗臨の有に歸した。
堺市史 第七巻 ((一七)堺春慶)

【子孫】其子孫は茶人千利休の頃まで、堺に居住したといはれて居る。
堺市史 第七巻 ((六)廢集雲菴)

(堺鑑下)第二世南坊宗啓は千利休の高弟で、當菴三疊の茶室には屢々茗讌開かれ、天正十三年九月利休と共に、
堺市史 第七巻 ((八〇)北向道陳)

茶湯を好み、法を空海に受けて其技に長じ、(茶人系傳全集)後之を千利休に傳へ、【茶道の宗匠】武野紹鷗の歿後宗匠
堺市史 第七巻 ((一五八)曾呂利新左衞門)

(堺鑑下)香技を志野宗心に受け、又茶湯を千利休に學んだ。或は紹鷗の門下とも云はれて居る。
堺市史 第七巻 ((一)鹽穴寺)

【實相庵移轉】又千利休の茶室實相庵があつたが、南宗寺に移轉せられた。
堺市史 第七巻 ((八七)山岡宗無)

【劒を上泉秀綱に學ぶ】劒を上泉秀綱に學び、(麻野家系圖)茶湯を千利休に受け、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕
堺市史 第七巻 ((八八)千 道安)

(八八)千 道安 千道安は千利休の嫡男、始めの名は紹安、眠翁と號した。
堺市史 第七巻 ((二)織田長益)

(寬政重修諸家譜卷第四百九十二、野史卷六十七)  【茶湯を利休に學ぶ】長益始め茶湯を千利休に學び、傍
堺市史 第七巻 ((五一)古溪宗陳)

既にして天正十八年赦に會して大德寺に歸つたが、同十九年二月、三十年參究の徒である千利休、秀吉の旨に忤ひ
堺市史 第七巻 ((八六)今井宗久)

、豐臣秀吉に仕へ、同十三年北野の茶會には宗久所藏の茶器は第四位を占めた(堺鑑下)【三名匠の一人】當時千利休及
堺市史 第七巻 ((八)大安寺)

(雲萍雜誌卷三)【庭園】方丈の庭園には千利休の時雨井及び虹手水鉢と云はれる利休好の棗形手水鉢あり、【什寶
堺市史 第七巻 ((一四)養壽寺)

(宗圓山養壽寺一式常住之覺)【庭園】猶千利休作で、今井宗久遺愛龜形の庭と傳へらるゝ小園が殘されてゐる。
堺市史 第七巻 ((一〇)慈光寺)

【墓碑】墓地には伊東義祐、千利休及び畫家森井鵬洲等の墓碑がある。
堺市史 第七巻 ((一)南宗寺)

實相庵實測圖      【南宗寺墓地】南宗寺墓地は天慶院及び海會寺の東方にあつて牡丹花肖柏、武野紹鷗、千利休等
堺市史 第七巻 ((一)南宗寺)

同菴は千利休が、鹽穴寺に造設以來既に久しく荒廢して、殊に明治初年の交には、屋宇壞れ、壁落ち、復修理を加,【墓碑】墓地には牡丹花肖柏、武野紹鷗、千利休並に千家一門の塔、茶宗隱岐宗沕壽碑、堺奉行贄安藝守正壽、中村一數
堺市史続編 第六巻 ([せ])

堺工場   3-690 泉然寺(市之町)   2-1107 銭納の展開   1-347~349 千利休
堺市史 第七巻 (目次)

八五一 (六)松江宗訥屋敷趾・・・・・・・・八五二 (七)今井屋敷址・・・・・・・・八五二 (八)千利休屋敷址
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