• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧

堺市立中央図書館/堺市史

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 10件
辞書ファセット
/ 1ページ
堺市史 第七巻 ((一〇九)南坊宗啓)

(一〇九)南坊宗啓 南坊宗啓始めの名は宗慶、後に宗啓と改めた。堺集雲菴の第二世である。,(茶人系傳全集)集雲菴は後に南坊と改めた。南坊宗啓は、卽ち南坊に住んだ宗啓の謂である。,南坊蝶疊と稱する棚飾は、宗啓の創意になつたものである。,第三十三圖版 南坊宗啓書狀 第三十三圖版 南坊宗啓書狀      宗啓は利休の歿後、其弟子漸,(南坊錄) / (一〇九)南坊宗啓
堺市史 第七巻 ((六四)岐翁紹禎)

いて擯出せられ、堺市之町六間筋に庵地を求め、集雲菴と稱したが、一路居士と宗祇との周旋で歸門を免され、【南坊,】師命によつて庵名を南坊と改めた。,以後集雲菴とも南坊とも稱へることゝなつた。,(南坊錄一)或はいふ一休岐翁を免したとき、然らば吾太刀を持つべしと云はれ、一休肖像の傍に太刀を持つて居
堺市史 第七巻 ((六)廢集雲菴)

門弟岐翁紹禎、師に背いて擯出せられ、市之町六間筋に集雲菴を構へて居住したが、後宥免せられ、集雲菴の名稱を南坊,(堺鑑下)第二世南坊宗啓は千利休の高弟で、當菴三疊の茶室には屢々茗讌開かれ、天正十三年九月利休と共に、,菴は實に南坊派茶道の淵藪であつた。,(南坊錄)元和の兵燹に燒失し、(堺市史蹟志料)澤庵南宗寺復興の際、塔頭の一に加へられ、外門の東北隅に移
堺市史 第七巻 ((九四)空海)

(南坊錄)壯年の時、【茶道を能阿彌に學ぶ】茶湯を能阿彌に受け、後俗塵を厭ひ、剃髮して堺に居住し、空海と
堺市史 第七巻 ((八〇)北向道陳)

(南坊錄、茶人系傳全集)又禪門に入り、普通國師に參して、南宗寺の外護者となつた。
堺市史 第七巻 ((八七)山岡宗無)

(南坊錄)或時三齋、利休と共に、宗無の茶會に行つたが、始めのいりに亭主出でゝ、不存寄名水到着仕候とて釜
堺市史 第七巻 ((八四)千利休)

(堺數寄者の物語、南坊錄)始め紹鷗其才を試みんと欲し、自ら庭園を灑ぎ、砂を布き、後利休を呼んで掃除を命,茜屋宗純、圓啁、伊丹屋紹無、山岡宗無萬代屋宗安、針屋紹味(水落)、宗意、小西如清、甫竹、重宗甫、糸屋宗有、南坊宗啓等
堺市史 第七巻 ((七九)武野紹鷗)

(南坊錄、堺鑑下)【大林に參禪】又南宗寺に大林和尚に參禪し、(泉州龍山二師遺藁)天文十八年八月一閑の道號
堺市史 第七巻 (插入圖版目次)

〇 第三十二圖版 武野宗瓦畫像 (名古屋市武野元平民所藏)・・・・・・・・一三二 第三十三圖版 南坊宗啓書狀
堺市史 第七巻 (目次)

(一〇七)茜屋宗佐・・・・・・・・一四〇 (一〇八)山本助五郞・・・・・・・・一四〇 (一〇九)南坊宗啓
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました