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堺市立中央図書館/堺市史

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堺市史 第七巻 ((一)南宗寺)

(一)南宗寺 第九十四圖版 南宗菴改稱偈文 第九十四圖版 南宗菴改稱偈文      南宗寺,(南宗寺諸法度) 第九十五圖版 南宗寺地割圖 第九十五圖版 南宗寺地割圖      ,にも、南宗寺塔頭として取扱ふに毫も不都合のない旨を記した。,、龍興の山號は南宗寺に奪はれ、寺領も亦南宗寺に於て處分し、朱印狀を始めとし、開山の法衣、念珠、過去帳等,(明治三十五年寺院提出書類、南宗寺史)博覽會開催中は、每日釜を懸けて茶席を開いた。 / (一)南宗寺
堺市史 第七巻 ((一)南宗寺)

(一)南宗寺 市内禪宗の巨刹として知られた南宗寺は、【所在】南旅籠町東三丁にあつて臨濟宗大德寺派に屬,鐘樓南方の 第百十圖版 南宗寺實測圖 第百十圖版 南宗寺實測圖      【佛殿】佛殿,庫裏の廊下には右側控室に中興開山以下の南宗寺定書の板額を揭げてゐる。  ,海會寺の南は南宗寺墓地への通路で、通路の南に塔頭天慶院がある。,第百十一圖版 實相庵實測圖 第百十一圖版 實相庵實測圖      【南宗寺墓地】南宗寺墓地 / (一)南宗寺
堺市史 第七巻 ((五七)一凍紹滴)

十六歳剃髮得度し、南宗寺に來つて、大林宗套に隨侍すること數年、祥首座の歿後は、【南宗寺駐錫】南宗寺に留,笑嶺の寂後、一派耆宿の合議により、堺の陽春菴に入り、【南宗寺第七世】又同門の請に應じて南宗寺を董し、(,(南宗寺歷世年譜)【大德寺出世】文祿三年五月勅によつて大德寺に出世し、其第百二十六世に上つた。,未だ幾何ならざるに、堺に歸り、陽春或は南宗に居つて教化に從ひ、後南宗寺の北隅に、厚德軒を創建して之に居,南宗寺開山塔の側に葬られた。
堺市史 第七巻 ((一〇六)剛堂宗健)

(一〇六)剛堂宗健 【大德寺住職】【南宗寺八十五世】宗健字は剛堂、京都の人、法を要道宗三に嗣ぎ、文化九年四月大德寺第四百二十七世,となり、又大源院の十世、(龍寶山大德禪寺世譜)南宗寺の八十五世となつた。,(南宗寺歷世年譜)文化十年東海寺輪番職に轉じ、天保六年二月二十八日示寂した。,(南宗寺歷世年譜)世壽七十五。(龍寶山大德禪寺世譜)
堺市史 第七巻 ((七九)密玄宗要)

【南宗寺三十一世】天和元年九月東海寺の輪番職となり、(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)又南宗寺の第三十一世,(南宗寺歷世年譜)【本源院開山】次で元祿年中南宗寺内に本源院を創設して其開祖となり、(諸寺院明細帳)同十五年七月十二日世壽七十二歳
堺市史 第七巻 ((四)天慶院)

(四)天慶院 【位置】天慶院は南旅籠町東三丁南宗寺境内にあり、同寺塔頭の一で、臨濟宗大德寺派大德寺末,【沿革】始め海眼菴と稱し、南庄谷口にあり、比丘尼寺であつたが、南宗寺第二世笑嶺宗訢のとき枝院となり、(,南宗寺諸法度)天正年中僊嶽宗洞之を中興し、(全堺詳志卷之上)元和兵燹後、中之町の舊一甫庵の地に移り、復興,の際、更に同寺境内心甫庵の移轉豫定地へ移し、表口九間、奧行十四間半の敷地を得、(南宗寺諸法度、烏焉集、,南宗寺復興豫定圖)泉南熊取の中道哲によつて造立された。
堺市史 第七巻 ((一〇二)直道宗淨)

(一〇二)直道宗淨 【大德寺出世】【南宗寺八十四世】宗淨字は直道、法を建宗義寅に嗣ぎ、文化七年正月大德寺第四百二十五世,に出世し、兼ねて德源院九世(龍寶山大德禪寺世譜)南宗寺の八十四世となつた。,(南宗寺歷世年譜)文政二年八月十七日世壽五十九歳を以て示寂した。(龍寶山大德禪寺世譜)
堺市史 第七巻 ((四六)笑嶺宗訢)

又諸堂に榜し、南宗寺十境を選定した。,其後引續き或は聚光院に赴き、又南宗寺に還つて叢林を董し、專ら弟子の鉗鎚に當つた。  ,、新寺に徙らば、南宗寺の監護を怠るの恐れありとし、再三之を固辭した。,と書し畢り、南宗寺に於て遷化した。世壽七十九、法臘六十五。,春屋宗園、古溪宗陳、仙嶽宗洞、一凍紹滴等の法嗣あり、何れも相前後して南宗寺の法燈を紹いだ。
堺市史 第七巻 ((八八)練了宗精)

(紫巖譜略)【南宗寺兼禪樂寺住職】紫野清源菴の三世、(龍寶山大德禪寺世譜)南宗寺の第六十八世で、(南宗寺歷世年譜
堺市史 第七巻 ((六)廢集雲菴)

(六)廢集雲菴 【位置】集雲菴址は南旅籠町東三丁南宗寺境域の東北隅、德泉菴の東にある。,(南坊錄)元和の兵燹に燒失し、(堺市史蹟志料)澤庵南宗寺復興の際、塔頭の一に加へられ、外門の東北隅に移,り、東西二十六間、南北十四間の敷地を占め、(南宗寺諸法度、南宗寺地割之圖)寬永三年後板宗理によつて再興
堺市史 第七巻 ((九一)圓巖紹通)

(紫巖譜略)【南宗寺七十五世】【長慶寺住職】南宗寺の第七十五世で、(南宗寺歷世年譜)又尼崎栖賢寺の住職
堺市史 第七巻 ((一三〇)山本堅峰)

【南宗寺内に寂照軒を建つ】一旦慨然として、唯念佛唱名の資を殘し、餘財を散じて、南宗寺内に寂照軒を建てゝ,元祿十四年八月十二日享年七十一を以て歿し、南宗寺に葬つた。(堅峰全固居士畫像贊)
堺市史 第七巻 ((二六二)中村家久)

享保十年十月三日家久の五十囘忌に當り、其孫宗雪南宗寺に寄進した。,(漏月菴墨蹟内外箱蓋裏書、漏月菴墨蹟添狀)【南宗寺の山門を建立す】而して亦、清巖宗渭南宗寺經營の際、家久之,(南宗寺山門棟札、本室宗有居士墓誌)斯して家久は南宗寺の有力なる外護者であつたが、延寶四年十月三日享年八十二歳
堺市史 第七巻 ((九二)藍谷義田)

(寶山住持世記下、龍寶山大德禪寺世譜)【南宗寺兼禪樂寺住職】南宗寺の第七十七世で、(南宗寺歷世年譜)本山清源菴
堺市史 第七巻 ((七六)瑞溪宗祥)

(龍寶山大德禪寺世譜)【南宗寺四十六世】次で南宗寺に入り、第四十六世となつた。,(南宗寺歷世年譜)同十二年三月二十六日世壽五十四歳を以て示寂した。
堺市史 第七巻 ((五八)清巖宗渭)

【禪師號勅賜】【南宗寺十三世】【德泉臨仕兩菴開山】寬文元年十月後西天皇、清淨本然禪師の徽號を賜はり、(,紫巖譜略)次いで南宗寺に入つて第十三世となり、(南宗寺歷世年譜)同寺内に德泉及び臨江の二菴を開創した。,【南宗寺經營】後亦南宗寺の經營に意を用ひ、正保四年六月中村家久の喜捨によつて、山門卽ち甘露門を造營した,(南宗寺山門棟札)【東海寺初住】澤庵の歿後、慶安二年幕命により品川東海寺の初住となり、道譽彌々高く、又高桐院
堺市史 第七巻 ((一一〇)宙寶宗宇)

【大德寺住職】【南宗寺八十二世】京都の人、法を則道宗軌に嗣ぎ、文化四年十一月大德寺第四百十八世に出世し,、芳春院(十三世)に住し、文化五年東海寺の輪番職となり、後松月軒に退居し(龍寶山大德禪寺世譜)後亦南宗寺,(南宗寺歷世年譜)【禪師號勅賜】天保七年仁孝天皇より大光眞照禪師の徽號を忝うしてゐる。
堺市史 第七巻 ((六六)傳外宗左)

寬文四年九月東海寺の輪番職となり、(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【南宗寺二十一世】【祥雲寺三世】又南宗寺,の第二十一世、(南宗寺歷世年譜)堺祥雲寺第三世を嗣いだ。
堺市史 第七巻 ((五四)澤庵宗彭)

【南宗寺十二世】【大德寺住職】同年八月南宗寺第十二世となり、慶長十四年一派の長老玉甫紹琮の奏請により、,【南宗寺鐘堂建立】十八年二月小出吉政卒去の際には、子吉英及び吉親の爲めに佛事を修し、布施を以て南宗寺の,【南宗寺燒跡見分】九月に至り澤庵南宗寺の燒跡を見分し、直ちに岸和田の日光教寺に赴き、暫く此處に寓居し、,(大德寺執事狀)【南宗寺諸法度制定】次いで寬永十一年九月晦日澤庵は南宗寺法度を制定した。  ,【南宗寺中興開山】澤庵の歿後、其門弟の京畿にある者及び南宗寺に關係のある人々等相胥つて、南宗寺の中興開山
堺市史 第七巻 ((二六四)中村宗治)

【南宗寺の再興に努む】然し荒廢既に久しき南宗寺を再興するの勝れるを聽き其命に遵ふた。  ,享保年中南京寺に茶人千宗旦の仲子原臾宗佐の塔を建て、(全堺詳志卷之上)同十年十月大鑑禪師清拙の墨蹟漏月菴の軸を南宗寺,【中村家の末路】中村家が父子兄弟相繼いで南宗寺及び禪樂寺の外護者となり、荒廢せる寺院の復興に努力したことは
堺市史 第七巻 ((六)玉橫野址)

(六)玉橫野址 【所在】歌枕として知られたる玉橫野は南宗寺東南の一帶を指稱し、「よもすから露のひかりをみかくなり,(文化十二年改手鑑)【異説】又一説には南宗寺附近説を疑ひ、所在未詳と記してゐるものもある。,(全堺詳誌)田能村直入筆茅海八勝の一、玉橫野は南宗寺東南郊としての心持で描かれてゐる。
堺市史 第七巻 ((六七)實堂宗傳)

(增補正燈世譜)【南宗寺二十二世】次いで南宗寺の第二十二世となり、(南宗寺歷世年譜)本山高桐院内に泰勝菴
堺市史 第七巻 ((七三)傳心宗的)

(紫巖譜略、寶山住持世記上)【南宗寺二十六世】又南宗寺の第二十六世、(南宗寺歷世年譜)寸松菴の三世で、
堺市史 第七巻 ((六二)江雪宗立)

(龍寶山大德禪寺世譜)【南宗寺十六世】【同寺諸堂題名と十境の撰定】次いで南宗寺第十六世となり、(南宗寺歷世年譜,(南宗寺十境幷諸堂題書箱書)就中曹溪の扁額のみには、明曆第二歳舍丙申仲冬二十七日就興住山江雪宗立書と紀年
堺市史 第七巻 ((五〇)僊嶽宗洞)

(紫巖譜略)又南宗寺第六世を繼ぎ、(南宗寺歷世年譜)笑嶺の命により、【海眼庵一世】堺海眼庵に入り、第一世,遺骸を南宗寺内、普通、本光兩祖塔の側に葬つた。法嗣に雲英宗偉がある。
堺市史 第七巻 ((五九)翠巖宗珉)

(紫巖譜略、龍寶山祖師傳卷五)【南宗寺二十世】又山城宇治の藏勝菴を中興し、(龍寶山祖師傳卷五、龍寶山大德禪寺世譜,後肥前に至り、平戸の是興寺、同清淨菴及び涼月菴の請を受けて、開山となり、(紫巖譜略、龍寶山祖師傳卷五)又南宗寺,(南宗寺歷世年譜)誌文に長じ、能書の聞こえ高かつた。
堺市史 第七巻 ((四九)明叟宗普)

(紫巖譜略)【明叟派の始祖】龍泉門下明叟派の始祖で、(增補正燈世譜)南宗寺の第四世である。,(南宗寺歷世年譜)【大德寺出世】次いで元龜二年大德寺第百十三世の住持となつた。
堺市史 第七巻 ((一九)小菅正芳)

(茅溟刺吏鑑文化十年手鑑)【南宗寺内東照宮社殿の造營】同十三年南宗寺に東照宮社殿の造營あり、四月十七日一般庶民
堺市史 第七巻 ((一六)白翁床雪)

【南宗寺の僧堂を董督す】明治十七年に至り堺南宗寺に徙り、僧堂を董して多くの門侶に接した。
堺市史 第七巻 ((一三)喜多見勝忠)

【秀忠、勝忠の邸に入る】同九年七月將軍德川秀忠南宗寺入來に際し、駕を勝忠の邸に抂げられ、勝忠茶を獻じて,(明暗雙々集卷之九)【南宗寺復興】此間澤庵宗彭を援けて、南宗寺の復興に努力した。,【影堂】【安骨碑】南宗寺境内に其影堂があつて、堂内の正面に板繪の畫像を揭げ、其下に前若州太守華林宗珍公靈位
堺市史 第七巻 ((四)小出吉英)

に歸依し、同年二月父吉政の卒去に際し、弟吉親と共に、乞ふて佛事を修し、其贈るところの嚫金を以て澤庵は南宗寺,(東海和尚紀年錄)【大阪兩役の功】【南宗寺の復興に力む】大阪冬夏兩役には、共に東軍に屬して戰ひ偉功を樹,て、役後兵火に累せられた南宗寺の復興に當つては、元和二年二月澤庵の乞ひにより、泉山の松樹三百種株を同寺
堺市史 第七巻 ((五)本源院)

(五)本源院 【位置】本源院は南旅籠町東三丁南宗寺境内にある同寺塔頭の一である。,(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)歷代本坊南宗寺の輪番である。
堺市史 第七巻 ((八)三好長慶)

此時笑嶺導師となり、又十三日より三七日間に亙つて其養子義繼施主となり、【南宗寺の供養】南宗寺に於て莊嚴,是に於て、【南宗寺の創建】菴を改めて南宗寺と號し、大林を開山とし、三年五月開眼供養を行ひ、河泉の内三萬石,(大林和尚塔銘、南宗寺創建記(全堺詳志卷之上))
堺市史 第七巻 ((二六一)松江宗安)

宗安の母は譽田屋德隣の女で、法號を德泉宗清大姉といひ、共に其墓碑が南宗寺の枝院德泉菴にある。,嬉遊笑覽卷一、近代世事談、安齋隨筆)【德泉菴創剏】宗安資性孝順、佛教を信じ、母氏の冥福を祈り、慶安元年功德場を南宗寺内
堺市史 第七巻 ((二〇)橋本峩山)

時に滴水天龍寺に在り、乃ち參道して止まず、共に本寺の再興を劃し、やがて二十四年堺南宗寺に請せられて、【,南宗寺住職】住職となり、甫めて接衆した。,是より先、南宗寺在住に際し、寺門廢頽して貧窶洗ふが如く、此間に處して枯淡に甘んじた。,又或時大阪師團の兵、野外演習に際し來つて南宗寺の一室を借り、宿營に充てた。
堺市史 第七巻 ((一)禪樂寺)

(一)禪樂寺 【所在】禪樂寺は南旅籠町東三丁字内農人町にあつたが、明治四十一年南宗寺境内德泉庵へ合併,北面し、東は一間の水道を隔てゝ鹽穴池と境した幅員一間半の道路に、西は一間の犬走、同三間の水道を隔てゝ南宗寺塔頭,又墓地址は西方南宗寺塔頭本源院境にあつて、墓石疊々として倒れ、【中村宗貞父子の墓碑】僅に中村宗貞父子の
堺市史 第七巻 ((六〇)春屋宗園)

【南宗寺第三世】四月堺南宗寺に入つて、其第三世となり、元龜二年四月大德寺に再住開堂した。
堺市史 第七巻 (插入圖版目次)

五八 第十三圖版 春林偈文 (京都市黃梅院所藏)・・・・・・・・六九 第十四圖版 大林木像 (堺市南宗寺所藏,第十五圖版 古嶽偈文 (堺市祥雲寺所藏)・・・・・・・・七二―七三 第十六圖版 大林偈文 (堺市南宗寺所藏,)・・・・・・・・一八六 第四十四圖版 喜多見勝忠影堂 (堺市南宗寺境内)・・・・・・・・一八七,第四十五圖版 贄 正壽墓表 (堺市南宗寺境内)・・・・・・・・一八九 第四十六圖版 江月自贊頂相 (,京都市龍光院所藏)・・・・・・・・二一五 第四十七圖版 江月書狀 (堺市南宗寺所藏)・・・・・・・・
堺市史 第七巻 ((七)海會寺)

(七)海會寺 海會寺は宿松山と號し、【位置】南旅籠町東三丁南宗寺境内にあり、東福寺末、寺格五等地。,(諸事文見記)時の住職は清巖宗渭で、看坊の幽庵は澤庵の門人であつた關係から、當時澤庵の南宗寺復興に際し,其助力を得て同寺域に入り、然も紛爭を生じて萬治四年の裁決を得るに至つた仔細は、南宗寺の項に記した通りである
堺市史 第七巻 ((一一)岐翁閑居址)

(堺鑑)【集雲庵】右閑居地は所謂集雲庵で、元和市街再興の際南宗寺境内へ移轉したところの寺院である。
堺市史 第七巻 ((五四)雲英宗偉)

(紫巖譜略)南宗寺の第九世で、(南宗寺歷世年譜)堺に還つて海眼庵に住した。
堺市史 第七巻 ((六三)天祐紹杲)

(原人論賀頌)【南宗寺住職】又南宗寺に入つて其住職となつたが、同寺歷年譜には之を逸して居る。
堺市史 第七巻 ((二二五)伊丹屋宗不)

(數寄者名匠集)父の菩提の爲に心甫庵を中之町寺町に創建したが、後南宗寺境内に移轉し、塔頭の一となつた。,(數寄者名匠集、南宗寺諸法度)澤庵肖像に題して「或時成主或時賓、賓主不離只个人、六十餘年一三昧、茶神若有是茶神
堺市史 第七巻 ((五二)中井芳瀧)

作品を出陳して賞賜を享くること二次、明治三十二年七月二十九日享年五十八歳を以て、堺に歿し、【墓所】南宗寺
堺市史 第七巻 ((五〇)山下蕉雨)

明治十五年六月二十九日享年四十五歳を以て歿し、【墓所】南宗寺内本源院の兆域に葬つた。
堺市史 第七巻 ((七〇)阿佐井野宗瑞)

(醫書大全跋文)論語の板木は今南宗寺に傳はつて居る。,南宗論語考異に、此論語跋文の筆者たる、清原宣賢の所藏であつたのを、細川幽齋が之を請ひ受け、更らに幽齋が之を南宗寺
堺市史 第七巻 ((一八五)高橋士得)

絶つこと年既に久しきに至り、心之を傷み、弘化三年齡七十歳の時、知友東畡に撰文を囑し、自己の壽藏碑を堺南宗寺内本源院,【壽碑建營と心情】其意、南宗寺は生家先塋の存するところで、今此碑を此處に建てなば、百歳の後、其子孫たるもの
堺市史 第七巻 ((二四〇)四極田基義)

【墓所】南宗寺の兆域の墓碑に、槐陰喜參墓と題せられてゐる。(墓誌)
堺市史 第七巻 ((一四六)田中玄仙)

文化二年四月二十五日、享年四十六歳を以て歿し、南宗寺内本源院の塋域に葬つた。
堺市史 第七巻 ((四二)樋口兼長)

越えて七月受業者相謀りて、【墓碑】墓碑を南宗寺の兆域に建てた。(墓誌)
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