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堺市史 第七巻
((一八九)衣笠一閑)
(一八九)衣笠一閑 【堺の人】【
堺鑑
を著す】衣笠一閑字は宗葛、堺の人である。,(
堺鑑
序、左界人名錄)博聞強記、堺に於ける神廟、宮室、陵墓、古跡、古事、戰場、寺觀、人物及び名物、土産等,の由來を考へ、之を詳述して、
堺鑑
三卷を著はした。,(
堺鑑
序)歿年、世壽等は詳かでない。
堺市史 第七巻
((一五六)南江宗玩)
始め相國寺の玉龍庵に入り、雲溪支山に就いて僧となり、(
堺鑑
下)後一休宗純に師事した。,(
堺鑑
下)【堺に來り葦原に住す】永享四年還俗し、一休と相携へて堺に來り、(東海一休和尚年譜)南莊葦原の,寬正四年夏病に罹り、(
堺鑑
下)食を絶つこと數日、住吉の茅庵に歿した。(五山詩僧傳)享年七十七。,(
堺鑑
下)詩稿一卷あり、鷗巢集といふ。
堺市史 第七巻
((四)廢三寶寺)
【沿革】某年兵燹に罹り、其後今池辨財天社前の池中より掘出し、之を三村社内に安置し、(
堺鑑
上)文明十六年十二月南莊樽屋町,(
堺鑑
上)故に每年十一月の火燒祭には、三村宮の社僧參勤の例となつた。,(
堺鑑
上)【石像銘名】石像銘文は天和三年
堺鑑
編纂當時既に磨滅して、文字彫刻の有無すら判明し難き程であつたが
堺市史 第七巻
((三)廢金光寺)
(
堺鑑
中)【沿革】開基は眞澄、(社寺明細帳)始めの宗派は明かでないが、後天台宗の道場となつた。,(
堺鑑
中)【後小松天皇御愛賞の紫藤】堂前に紫藤あり、後小松天皇藤花の艶麗なるを聞かれ、之を皇居に移植せしめられたが,(
堺鑑
中、泉州志卷之一、)此事叡聞に達し、復び御製を下賜せられた。,(
堺鑑
中)然るに樹齡久しきを重ね遂に枯損し、現存のものは別樹を移植したものであると云ふ。,【朱印寺領】當寺は豐臣秀吉の時に寺領十九石を寄せられ、(
堺鑑
中)德川氏を經て(代々手鑑)明治維新後上地
堺市史 第七巻
((二六)極樂寺)
【沿革】天平八年行基の開創と稱し(社寺明細帳)往昔境内法界引導碑石の邊に地藏堂を構へたが、(
堺鑑
中)嵯峨天皇,(
堺鑑
中)其後寺觀漸く衰頽し、且つ兵火に罹つて、堂宇、佛像等を失つたが後覺心比丘尼之を再興した。,(
堺鑑
中、泉州志卷之一)【朱印寺領】豐臣秀吉寺領二十石の朱印を寄せ、德川幕府亦之に傚ひ、(朱印狀、代々手鑑,【本尊】本尊阿彌陀如來は行基の作と稱し(
堺鑑
中)【堂宇】本堂の外に辨天堂あり、境内は六百九十六坪を占めてゐる
堺市史 第七巻
((六)妙慶寺)
【開基】文龜元年の交日英京都妙顯寺より來つて創建し、(
堺鑑
中、社寺明細帳)【中興】天正年中、日唱法師中興,(堺南北寺庵本末開基旨旨改帳、
堺鑑
中)【日像自書の石塔】庭前に日像上人自書と傳ふる石塔がある、故に世俗之,(
堺鑑
中)【本尊】本尊題目寶塔、釋迦、多寶二佛、【堂宇】本堂、庫裏、拜所、鐘樓、門及び三光堂あり、境内四百八十七坪
堺市史 第七巻
((三一)西向寺)
【沿革】專修寺玄譽永徹の開基に係り、天正九年六月照蓮社寂譽再興、(社寺明細帳、
堺鑑
中)慶長中遍照寺傳譽牛澤之,(
堺鑑
中)【堂舍】本堂、庫裏の外に觀音堂あり、(社寺明細帳)【藥師如來】奉安の藥師如來は、傳春日佛師作,、長三尺三寸の座像で、もと平城天皇の念持佛を永祿年中當寺に遷したものと傳ヘ、(
堺鑑
中)境内面積二百七十四坪
堺市史 第七巻
((三)晴明辻)
(
堺鑑
)【民間説話】安倍晴明泉州信太村よりこゝを通過の際旅民辻占の爲め、陰陽の神符を埋めたといふ。,(
堺鑑
)元來辻占の風習は民間信仰の一で、攝、泉兩國の境界に當る大小路に此信仰の現れを見るのは自然であるから
堺市史 第七巻
((一一八)茜屋吉松)
(數寄者名匠集)【所有の名器】家に木野邊肩衝、弦付茶入、牧溪筆鷄の繪、斷江の茶碗、(
堺鑑
下)無鏑花缾、,(
堺鑑
下)
堺市史 第七巻
((一一)少林寺)
境域は今の寺地町、少林寺町を包擁し、兩町の海濱にまで達したが、織田信長に沒收せられて次第に衰頽し、(
堺鑑
中,(
堺鑑
中、泉州志卷之一)豐臣秀吉は石田三成(泉州志には石田隱岐守)小西行長をして、境内竹木の伐採を禁止,(
堺鑑
中、泉州志卷之一)【舊塔頭】寶永元年の記錄には、塔頭に耕雲菴、心源菴、祗孤菴、養松菴、曹溪菴及び,(和泉名所圖會卷之一)天文五年(
堺鑑
、和泉名所圖會には永德中に作り、泉州志には永祿中に作る)塔頭耕雲菴,(
堺鑑
中、泉州志卷之一)是より此狂言を演ずるときには、必ず此處に參詣し、彼の靈狐の棲んだ竹籔の小篠を伐
堺市史 第七巻
((一一)聾井址)
(一一)聾井址 豐臣秀吉の茶湯に使用せられ、井守聾者の故に其名を生じたとの傳説を有つた(
堺鑑
)聾井は,(
堺鑑
)
堺鑑
の出來た天和頃には名井として知られてゐたが、全堺詳志の作られた享保頃には既に水質を變じてゐた
堺市史 第七巻
((二)海會寺井)
(
堺鑑
)【金龍水の傳説】一名金龍水は開山乾峯和尚旱魃に際し龍神に祈り、老人に化生した鬼面龍神と法筵に逢,(
堺鑑
)德川時代此井水は豆腐製造に適し同業者多く之を用ひたといふ。(全堺詳志)
堺市史 第七巻
((六四)岐翁紹禎)
(
堺鑑
下、類聚名物考卷五十一)明應七年、【公卿の參禪】烏丸光康は少納言菅原利長と共に堺に來つて岐翁に參禪,(
堺鑑
下、類聚名物考卷五十一)
堺市史 第七巻
((五)武野紹鷗屋敷址)
(
堺鑑
)
堺市史 第七巻
((一四六)加賀四郞)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((一五〇)雜賀淨甫)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((一四五)意雲)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((一四七)宗鐵)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((七)東光寺)
(堺南北寺庵本末開基宗旨改帳、
堺鑑
中)始め化翁海中に、日夜光明の出現するを見、網を投じて藥師如來の尊像,(
堺鑑
中、和泉名所圖會卷之二)【堂宇】本堂、庫裡、客室、門及び、毘沙門堂、地藏堂がある。
堺市史 第七巻
((一一)岐翁閑居址)
(
堺鑑
)【集雲庵】右閑居地は所謂集雲庵で、元和市街再興の際南宗寺境内へ移轉したところの寺院である。
堺市史 第七巻
((一八)木戸作右衞門)
(
堺鑑
中)
堺市史 第七巻
((一〇)扇子屋甚左衞門屋敷址)
一休和尚烏扇の傳説によつて有名な扇子屋甚左衞門屋敷地は、【所在】甲斐町西一丁字中濱にあつたと傳へてゐるが(
堺鑑
堺市史 第七巻
((二)九艘小路)
(
堺鑑
、堺大觀)
堺市史 第七巻
((二八四)一節道清)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((一〇五)鹽屋宗悅)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((一四二)宍喰屋某)
(
堺鑑
中、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((一九)了覺寺)
(界府黑谷了覺寺緣起、
堺鑑
中)是より堺の黑谷と通稱され、道俗の信仰篤かつたが、【當麻念佛院の本尊移座】,(界府黑谷了覺寺之緣起、
堺鑑
中)元和年中第二世存譽宗嚴の時寺號を授與せられ、後寺觀漸次衰頽に傾いたが、
堺市史 第七巻
((四)七道)
(
堺鑑
一説として載す)(四)何れの時か不明であるが胴が七つに分れて四天王の影像浪に漂ひつゝ此濱に着し、,(
堺鑑
) 右四説中最も知られたものは(一)説で、七道の文字を多く七堂と記したのも其爲めである。
堺市史 第七巻
((一四九)國康)
(
堺鑑
下)
堺市史 第七巻
((七九)武野紹鷗)
(
堺鑑
下)二十四歳、上洛して和歌を三條西實隆に學び、(
堺鑑
下、茶人系傳全集)四條夷堂の側に居り、夷大黑,(雍州府志卷八、
堺鑑
下、茶人系傳全集、武野家系圖)其雅號は演雅の詩に「江南水色碧二於天一、中有二白鷗閑似一,紹鷗は茶湯を此二居士に學び、(茶人系傳全集、
堺鑑
下)傍ら紫野の古嶽和尚に參禪した。,(南坊錄、
堺鑑
下)【大林に參禪】又南宗寺に大林和尚に參禪し、(泉州龍山二師遺藁)天文十八年八月一閑の道號
堺市史 第七巻
((一五一)中西西順)
(一五一)中西西順 【裱裝の名工】中西西順は大和笠置の人、(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)裱裝の名人として
堺市史 第七巻
((七八)松井宗誾)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((二七四)溫故)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((二九八)車屋道悅)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((一〇一)石橋良叱)
(數寄者名匠集)良叱は串指雀、釣瓶、坂東屋筒、蝸牛の花生、(
堺鑑
下)六十夜舟、破竹硯、【所有の名器】宗易
堺市史 第七巻
((一四〇)小西如清)
(
堺鑑
下)宿屋町大道の北寄東側に邸宅があつたと傳へられて居る。,後薙髮して如清と號し、(
堺鑑
下)文祿二年病歿した。
堺市史 第七巻
((一)行基)
(念佛、向泉、鹽穴、淨得各寺緣起、堺南北寺庵本末開基宗旨改帳、
堺鑑
中)【三國の布施屋】行基は又三國衢に,和泉名所圖會卷之二)【向泉寺井鹽風呂】向泉寺の井、鹽風呂亦行基の開鑿に係るといはれ、更らに(向泉寺及び旭蓮社緣起、
堺鑑
中,(
堺鑑
上)天平勝寶元年正月十四日、天皇、皇后は、行基を宮中に請じて菩薩戒を受けられ、大菩薩號を賜はり、
堺市史 第七巻
((一五)松山新助)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((七六)宗椿)
(
堺鑑
下、和泉名所圖會卷之一)
堺市史 第七巻
((一〇二)紅粉屋宗陽)
(一〇二)紅粉屋宗陽 紅粉屋宗陽(茶事談、茶人系傳全集、
堺鑑
には輕粉屋とあるが、今は全堺詳志及び數寄者名匠集
堺市史 第七巻
((三)馬堂址)
(
堺鑑
)同社は每年六月の住吉御祓祭に神馬の秣を獻じ、南莊より清祓錢を出し、附近を目口筋と云つたが、(全堺詳志
堺市史 第七巻
((二七五)利玄)
(
堺鑑
下、泉刕志卷之一、全堺詳志卷之下)【闘技】利玄慶長十二年十一月大阪城に本因坊と對局し、秀賴其技を
堺市史 第七巻
((二八三)甫竹重右衞門)
【子孫】子孫代々甫竹某と稱し、(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)天和の頃までは堺に住したと傳へられて居る。
堺市史 第七巻
((七七)等惠)
(
堺鑑
下) 落花隨風 まほろしに我身をなさは山かせの 花のありかを
堺市史 第七巻
((二)舳松神社址)
同社は一に九本松明神とも云ひ、(
堺鑑
、社寺明細帳)合祀當時旭蓮社の境内の東北隅にあつた。
堺市史 第七巻
((一二)曾呂利新左衞門屋敷址)
(
堺鑑
、堺史料類纂)卽ち元祿二年堺大繪圖に、本在家西目口町、兩目口町と記した區域で、今の市之町東三丁及
堺市史 第七巻
((一五三)宮尾道三)
(
堺鑑
下、全堺詳志卷之下)
堺市史 第七巻
((五六)鹿喰善二郞)
(
堺鑑
中)人と爲り溫厚篤實、勤儉力行、慈悲心に富み、【鹿喰銀行經營】先代鹿喰銀行の事業を繼いで經濟界に
堺市史 第七巻
((二七)道顯)
(大谷本願寺通記、堺御坊御役錄、
堺鑑
中、泉州志卷之一)蓮如此處に僑居して、親ら教行信證、持名鈔並びに六字
堺市史 第七巻
((一四八)橘屋又三郞)
(南浦文集、
堺鑑
下) 【鐵砲記】江戸時代の末寶曆の頃、其後裔に橘屋吉右衞門なる者あり、家藏に時堯の
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