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堺市史 第七巻
((八九)璋隱宗瑾)
(八九)璋隱宗瑾 【
大德寺
出世】【臨江菴住職】宗瑾、字は璋隱豐後の人、法を萬拙宗庸に嗣ぎ、享保十七年閏五月
大德寺
第三百二十三世,【
大德寺
再住】同十九年品川東海寺の輪番職となり、二十一年四月三日再住開堂した。元文五年十月九日示寂。
堺市史 第七巻
((六〇)春屋宗園)
山城の人で、俗姓は薗部氏、笑嶺宗訢の法を嗣ぎ、【
大德寺
出世】永祿十二年三月
大德寺
に出世し、其第百十一世,【南宗寺第三世】四月堺南宗寺に入つて、其第三世となり、元龜二年四月
大德寺
に再住開堂した。,
大德寺
塔頭三玄院に葬つた。(寶山住持世記上、龍寶山大德禪寺世譜)
堺市史 第七巻
((二二)養叟宗頥)
華叟の遷化に當り、
大德寺
中に大用庵を新營し、華叟の塔を建て、且つ奏請して、大機弘宗禪師の追諡を得た。,(龍寶山
大德寺
世譜)後花園天皇其道譽を聞き、勅旨して文安二年八月
大德寺
に入らしめ、其第二十六世となつた,後細川勝元の招きにより、再び
大德寺
に歸つた。,これ
大德寺
の住持に禪師號を特賜せらるゝ始めである。
堺市史 第七巻
((一三九)尾和宗臨)
(尾和宗臨畫像贊)永享年中一休の爲めに、
大德寺
内に眞珠庵を創建した。,【
大徳寺
諸堂の再建】應仁、文明の亂
大德寺
兵燹に罹り、諸頭塔の未だ再建せられざるものが多かつた際に(龍寶山大德禪寺世譜,(
大德寺
文書)眞珠庵は、一休が德禪及び大用、如意二庵の再興を急ぎ、先づ之に着手した爲めに、存命中復興を,(龍寶山大德禪寺世譜)宗臨は貿易に從事した船舶の帆柱を
大德寺
の棟梁とし、船板は庫裏の腰板に使用したと傳
堺市史 第七巻
((五一)古溪宗陳)
長じて驢雪霸公に就いて得度し、幾何ならず足利學校に遊んで外典を修め、後
大德寺
の江隱宗顯に參じ、春屋宗園等,【
大德寺
出世】天正元年勅を奉じて
大德寺
第百十七世に出世した。,龍寶山大德禪寺世譜)道譽一世に高く、【秀吉の崇信】頗る豐臣秀吉の崇信する所となり、同十年秀吉總見院を
大德寺
内,既にして天正十八年赦に會して
大德寺
に歸つたが、同十九年二月、三十年參究の徒である千利休、秀吉の旨に忤ひ,自刄を命ぜられ、【
大德寺
破壞一件】嘗て利休が
大德寺
の山門に自己の彫像を安置せる僭越を憤り、德川家康等の
堺市史 第七巻
((六九)半井利長)
【一休に參禪】久しく
大德寺
の一休宗純に參禪して禪要を究め、入道して道三と稱し、晚年老を以て堺に隱栖した,永正四年正月五日病を以て卒し、
大德寺
に葬つた。(半井家系圖)法名を擧明道三居士といふ。,(墓表)
大德寺
眞珠庵にある位牌は、一休和尚の筆蹟である。
堺市史 第七巻
((六二)瑤林宗玖)
【
大德寺
出世】慶長十二年三月
大德寺
に出世し、其第百四十八世となつた。
堺市史 第七巻
((七一)春外宗信)
(七一)春外宗信 【
大徳寺
住職】宗信、字は春外、京都の人、法を祥巖宗鶴に嗣ぎ、延寶三年三月
大德寺
に入
堺市史 第七巻
((一〇一)心海宗硏)
堺の人、法を詮叟宗註に嗣ぎ、寬政八年三月
大德寺
の第四百十世となり、寸松菴に住して第九世となつた。,【
大德寺
住職】同十年東海寺の輪番職となり、文化九年八月十一日世壽六十八歳を以て遷化した。
堺市史 第七巻
((一〇二)直道宗淨)
(一〇二)直道宗淨 【
大德寺
出世】【南宗寺八十四世】宗淨字は直道、法を建宗義寅に嗣ぎ、文化七年正月
大德寺
第四百二十五世
堺市史 第七巻
((一一一)大綱宗彦)
(一一一)大綱宗彦 【
大德寺
住職】宗彦字は大綱、京都の人、法を融谷宗通に嗣ぎ、文政三年六月
大德寺
第四百三十五世
堺市史 第七巻
((四六)春嶽宗勝)
(四六)春嶽宗勝 【
大徳寺
住職】宗勝、字は春嶽、法を寶叔宗珍に嗣ぎ、元和四年九月
大德寺
の第百六十一世
堺市史 第七巻
((五五)舊嶽宗容)
(五五)舊嶽宗容 【
大德寺
出世】宗容、字は舊嶽、近江の人、法を藍溪宗瑛に嗣ぎ、寬永十九年三月出世して,、
大德寺
第七十七世となり、二十年四月開堂した。
堺市史 第七巻
((六五)祥巖宗鶴)
(六五)祥巖宗鶴 【
大德寺
住職】宗鶴、字は祥巖、京都の人、法を舊嶽宗答に嗣ぎ、明曆元年五月
大德寺
第百九十二世
堺市史 第七巻
((七五)虎巖宗乙)
(七五)虎巖宗乙 【堺人】【
大徳寺
住職】宗乙、字は虎巖、堺の人、法を實堂宗傳に嗣ぎ、元祿六年二月
大德寺
第二百五十二世
堺市史 第七巻
((四三)寶叔宗珍)
(四三)寶叔宗珍 【堺の人】【
大徳寺
住職】宗珍諱は寶叔、堺の人、玉仲宗琇の法を嗣ぎ、文祿二年四月勅を,奉じて
大德寺
第百三十五世となつた。
堺市史 第七巻
((八七)信叔義門)
(紫巖譜略其他には、泉州の人とす)(寶川住持世記上)【
大德寺
、堺一法院住職】法を大心義統に嗣ぎ、享保十四年六月
大德寺
第三百十八世
堺市史 第七巻
((八八)練了宗精)
(八八)練了宗精 【
大德寺
住職】宗精字は練了、京都の人、法を大心義統に嗣ぎ、享保八年二月
大德寺
第三百十世
堺市史 第七巻
((一〇六)剛堂宗健)
(一〇六)剛堂宗健 【
大德寺
住職】【南宗寺八十五世】宗健字は剛堂、京都の人、法を要道宗三に嗣ぎ、文化九年四月
大德寺
第四百二十七世
堺市史 第七巻
((一〇八)護法宗行)
(紫巖譜略)【
大德寺
出世】法を德禪寺の刹巖義梵に嗣ぎ、文化五年四月
大德寺
第四百二十世に出世した。
堺市史 第七巻
((四六)笑嶺宗訢)
當時古嶽宗亘
大德寺
に在つて化導の盛んなることを聞き、【古嶽の記室となる】見參して記室となり、日夕心要を,(祖心本光禪師行狀(泉州龍山二師遺藁卷之下))永祿元年十月、【
大德寺
出世】勅を奉じて
大德寺
第百七世の住持,後長慶の嗣子三好義繼が、父菩提の爲めに長慶の舊邸を捨てゝ
大德寺
内に聚光院を建立するに及び、開山第一祖となり,永祿十二年九月(龍寶山大德禪寺世譜、今本光禪師行狀)正親町天皇は特に祖心本光禪師の號を勅賜せられ、【
大德寺
法要導師,】天正十年十月
大德寺
に於て、羽柴秀吉、織田信長の葬儀を營むや、其導師を勤めた。
堺市史 第七巻
((四八)松嶽紹長)
(四八)松嶽紹長 【堺人半井氏】【
大徳寺
住職】紹長、字は松嶽、堺の人、俗姓半井氏、玉仲宗琇の法を嗣ぎ,、文祿二年九月
大德寺
の第百三十七世となり、山内に金龍院を創建した。
堺市史 第七巻
((九一)圓巖紹通)
(九一)圓巖紹通 【
大徳寺
住職】紹通字は圓巖、京都の人、法を雲秀宗台に嗣ぎ、元文三年十二月
大德寺
に入
堺市史 第七巻
((九五)恭山宗良)
龍寶山大德禪寺世譜)法を德禪寺の天嗣宗孚(黃梅院の第九世、堺禪通寺の第十世)に嗣ぎ、(龍寶山大德禪寺世譜)【
大德寺
出世,】寬延四年八月出世して、
大德寺
の第三百五十五世となり、十月開堂した。
堺市史 第七巻
((四〇)春林宗俶)
幼にして同國の玉龍寺に入つて剃髮し、稍々長じて
大德寺
の悅溪宗忢、小溪紹怤二師に參し、後徹岫宗九に參究すること,(春林和尚行實)天文十三年四月、
大德寺
第九十八世に瑞世した。,然も席未だ暖まらざる中に、但馬に徙つて圓通寺に住し、佛殿を修造し、【黃梅院創建】晚年には
大德寺
に黃梅院
堺市史 第七巻
((七六)瑞溪宗祥)
(七六)瑞溪宗祥 【
大徳寺
住職】【再住】宗祥字は瑞溪、堺の人、法を實堂宗傳に嗣ぎ、元祿九年三月
大德寺
第二百五十五世
堺市史 第七巻
((八〇)剛山宗柔)
(八〇)剛山宗柔 【
大德寺
出世】宗柔字は剛山、大和の人、法を密玄宗要に嗣ぎ、寶永二年二月出生して、
大德寺
第二百七十世
堺市史 第七巻
((八一)穆巖宗穆)
【
大德寺
出世】元祿九年三月
大德寺
に出世して、第二百五十六世となり、十一年九月開堂した。
堺市史 第七巻
((九二)藍谷義田)
(寶山住持世記上、紫巖譜略其他には泉州の人に作る)【
大徳寺
住職】【再住】法を練了宗精に嗣ぎ、寬保二年正月
大德寺
第三百四十二世
堺市史 第七巻
((九七)大〓宗般)
(紫巖譜に京師の人に作る)【
大德寺
住職】法を龍〓宗黃に嗣ぎ、寶曆二年二月
大德寺
に入り、第三百五十七世の
堺市史 第七巻
((七九)密玄宗要)
(七九)密玄宗要 【
大德寺
出世】宗要、字は密玄、京都の人、法を見嚴紹及に嗣ぎ、延寶八年正月
大德寺
第二百二十八世
堺市史 第七巻
((一〇〇)融谷宗通)
(龍寶山大德禪寺世譜)【
大德寺
住職】寬政八年二月
大德寺
第四百九世となつた。
堺市史 第七巻
((五四)雲英宗偉)
大德寺
に入り參禪數年、三十三歳の時、終に法を僊嶽に嗣いだ。,(僊嶽、雲英兩和尚畫像裏書)慶長二年三月勅請により、【
大德寺
出世】
大德寺
の第百四十一世となつた。
堺市史 第七巻
((五六)安室宗閑)
(麻野氏系圖)【
大德寺
住職】後
大德寺
に登つて、法を江月宗玩に嗣ぎ、寬永十九年三月入寺し、第百七十六世となつた
堺市史 第七巻
((八三)鶴洲宗壽)
(八三)鶴洲宗壽 【
大德寺
出世】宗壽、字は鶴洲、堺の人、法を大心義統に嗣ぎ、享保四年四月
大德寺
第三百世
堺市史 第七巻
((五九)翠巖宗珉)
卽ち宗松の弟で、
大德寺
江月宗玩の家姪に當つてゐる。,(半井家系圖)【
大德寺
住職】江月に嗣法し、明曆三年三月
大德寺
第百九十五世となつた。
堺市史 第七巻
((四九)明叟宗普)
(南宗寺歷世年譜)【
大德寺
出世】次いで元龜二年
大德寺
第百十三世の住持となつた。
堺市史 第七巻
((一一〇)宙寶宗宇)
【
大德寺
住職】【南宗寺八十二世】京都の人、法を則道宗軌に嗣ぎ、文化四年十一月
大德寺
第四百十八世に出世し
堺市史 第七巻
((二八)春浦宗熈)
幼にして業を建仁寺の乾心に受け、十八歳薙髮受具し、藏鑰を司どり、次いで
大德寺
養叟に師事し、寬正二年十一月勅,によつて
大德寺
の第四十世を嗣いだ。
堺市史 第七巻
((六六)傳外宗左)
【
大德寺
出世】山城の人、法を天祐紹杲に嗣ぎ、明曆三年八月
大德寺
第百九十六世に出世し、萬治元年十二月開堂
堺市史 第七巻
((五三)江月宗玩)
八年父宗及、春屋を大通菴に招請の際、始めて謁見し、やがて十年
大德寺
に入つた。,【堺に歸る】翌二年堺に歸り、僊嶽、一凍に參禪し、慶長三年歸洛して
大德寺
に入り、四年石田三成近江佐和山に,【
大德寺
住職】十五年十一月
大德寺
に出生し、第百五十六世となつた。,(大梁興宗禪師年譜)【
大德寺
出世事件】同六年澤庵及び玉室と共に、
大德寺
出生を舊に復せん事を謀り、幕規に
堺市史 第七巻
((六二)江雪宗立)
【
大德寺
住職】【同寺再住】正保元年十二月
大德寺
第百八十一世の住職となり、同三年九月再住した。,慶安四年品川東海寺の輪番職となり、
大德寺
山内に看松菴を創立して常住した。
堺市史 第七巻
((六七)實堂宗傳)
(六七)實堂宗傳 【
大德寺
住職】宗傳字は實堂、自ら如寄子と號した。,近江の人、法を清巖宗渭に嗣ぎ、寬文二年三月
大德寺
に入り、第二百二世となつた。
堺市史 第七巻
((七三)傳心宗的)
【
大德寺
住職】翠巖宗珉に嗣法し、(龍寶山大德禪寺世譜)寬文十三年正月
大德寺
の第二百十五世となり、二月開堂
堺市史 第七巻
((五四)澤庵宗彭)
【三玄院駐錫】同十九年正月師の示寂により、澤庵文祿元年偶々來化した
大德寺
の董甫紹中に參禪し、三年紹中の,歸洛に隨ひ、
大德寺
三玄院に入り、更らに春屋宗園に參禪し、諱を宗彭と改めた。,斯くして遂に十二年三十五歳
大德寺
の第一座となり、德禪寺の席を董した。,三月
大德寺
第百五十三世に瑞世した。,【
大德寺
歸還】同十一年の春武野宗朝寫すところの頂相に贊し、六月幕命によつて、玉室と共に
大德寺
に歸つた。
堺市史 第七巻
((七四)谷宗臨)
眠牛齋宗本居士の長子で、
大德寺
の僊嶽宗洞の俗兄に當る。【家系】家世々堺の豪家を以て知られた。,もと
大德寺
の塔頭大仙院の什寶であつた。,(神國和歌正流血脈之卷)時安の弟は卽ち
大德寺
の雲英宗偉である。
堺市史 第七巻
((四)天慶院)
(四)天慶院 【位置】天慶院は南旅籠町東三丁南宗寺境内にあり、同寺塔頭の一で、臨濟宗
大德寺
派
大德寺
末
堺市史 第七巻
((五〇)僊嶽宗洞)
(龍寶山祖師傳卷五)【
大德寺
出世】天正七年九月勅を奉じて
大德寺
に入り、其第百二十二世となつた。
堺市史 第七巻
((五六)玉仲宗琇)
日向櫛間の人で、【
大德寺
出世】永祿十三年二月勅を奉じて
大德寺
に入り、第百十二世となつた。
堺市史 第七巻
((六三)天祐紹杲)
【
大德寺
出世】法を萬江宗程に嗣ぎ、寬永二年六月
大德寺
の第百六十九世となつた。
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