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堺市立中央図書館/堺市史

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堺市史 第七巻 ((七四)天倫宗忽)

(七四)天倫宗忽 宗忽字は天倫、自ら不可得叟と號した。,時に中村宗治(宗貞居士)父宗有居士の遺命により地を求め、寺を創して、天倫に開山たらん事を請ふた。,【禪樂寺に入山】同三年堺の檀越中村宗久(宗貞の弟)不盡庵(後の禪樂寺)の廢地を求めて堂宇を再建し、天倫,(法鑑禪師年譜)【遺偈】其日宗貞は座下に進み、伽藍の成就を告げたが、天倫法城を護れとの詞を與へて、厚意 / (七四)天倫宗忽
堺市史 第七巻 ((七二)覺印義諦)

法を天倫宗忽に嗣いだ。【天倫和尚の俗弟】卽ち天倫の俗弟で、法弟大心義統の舅である。,天倫座視するに忍びず、之を紫野に招いて詩文の友とし、終に法衣及び正脈圖を嗣がしめた。,(天倫和尚語錄)【佛在菴創建】義諦後堺不盡菴(後の禪樂寺)内に佛在菴を建てゝ之に住した。,(天倫和尚語錄)
堺市史 第七巻 ((二六四)中村宗治)

寬文七年八月天倫宗忽の堺德泉菴に來るに際し、宗治祖先追福の爲に一寺を創め、開祖たらんことを請ふたが、未,延寶五年十月宗治先考宗有の小祥忌に方り、天倫の弟子となり、剃髮して宗貞と號した。,翌六年宗貞は重ねて一寺開設のことを天倫に謀つた。,【弟宗久】【禪樂寺の再興】弟宗久は通稱を海部屋平右衞門といひ、(祥雲寺略記)亦兄に倣ふて、天倫退休所として
堺市史 第七巻 ((八五)大心義統)

【天倫和尚の俗姪】寬文六年大德寺清凉院に入り、舅天倫宗忽に師事し、翌年二月薙髮、延寶八年正月墨江の快圓律師,(前住大德本刹中興大心大和尚墓記)元祿十年六月其師天倫示寂に際し、七七日の法要を嚴修し、越えて三年檀越塔,を禪樂寺(不盡菴)に營み、塔に題して勅諡國英法鑑禪師天倫宗忽和尚之塔と稱した。
堺市史 第七巻 ((九)廢禪樂寺)

是に於て天倫宗忽を請して重興開山とした。,次で天倫の法嗣覺印義諦同菴の第二世となり、境内に佛在菴を創立して之に住した。
堺市史 第七巻 ((三)德泉菴)

(社寺明細帳)【什寶】什寶に開祖清巖木像一軀、同自贊頂相一幅、禪樂寺重興開山天倫木像一軀、大心木像一軀等
堺市史 第七巻 ((二六一)松江宗安)

長子遠貞墓碑を菴の西林に建て天倫宗忽に銘文を乞ふた。(閒翁宗安居士墓碑銘)
堺市史 第七巻 ((一)禪樂寺)

【禪樂寺と不盡菴】同寺の境域は、前名不盡菴(天倫和尚語錄、谷氏系譜傳)となつて元祿二年の堺大繪圖に見えて
堺市史 第七巻 ((一二)祥雲寺)

額寂然塔は近衞基熈、庫裡の香積界は天祐和尚、小方丈の臥龍窟は支那人簞獻籙、法王堂及び鐘樓惺世樓、釣鼇は天倫和尚,祥雲寺略記)【澤庵歿後の住職】斯して澤庵寂後住職を缺くこと十三年、後天祐紹杲を請し、天祐の後に傳外宗佐あり、天倫宗忽傳外
堺市史 第七巻 ((三)祥雲寺)

佛殿】佛殿は鐘樓の東南方にあつて寬永十九年に建てられ、西面の桁行四間三尺、梁行三間二尺七寸、正面に高く天倫和尚筆
堺市史 第七巻 ((一)南宗寺)

(南宗寺十境及諸堂題銘箱書、同題銘十九軸、全堺詳志卷之上)  【天倫の重興】次いで第二十七世の住職天倫宗忽,(天倫和尚語錄、法鑑禪師年譜)而も德川時代二百數十年の間隆替變遷の數を免れず、【諸塔頭の變遷】寬永十一年
堺市史 第七巻 (目次)

二四三 (七二)覺印義諦・・・・・・・・二四三 (七三)傳心宗的・・・・・・・・二四四 (七四)天倫宗忽
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