機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
キーワード一覧
堺市立中央図書館/堺市史
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 10件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
堺市史 第七巻
((一〇)慈光寺)
(一〇)
慈光寺
慈光寺
は無量山と號し、俗に紺屋道場と呼ぶ。,(
慈光寺
緣起)賢知、道顯、正祐(善教寺の開基)は堺の三坊と稱せられ、蓮如の化導を援けて泉南の宗風大に興起,(
慈光寺
緣起、同由緖書)當時寺地は紺屋町にあつた。,其功勞によつて未廣と六字の名號及び
慈光寺
の額字を授與せられた。,(
慈光寺
文書)境内三百七十二坪。 / (一〇)
慈光寺
堺市史 第七巻
((二九)圓二坊賢知)
(
慈光寺
由緖書、全堺詳志卷之上、泉州志卷之一)父正勝は元中九年戰敗れて千劍破(ちはや)城から十津川に遁竄,(
慈光寺
由緖書、南山巡狩錄)此時男子二人あり、長を太郞左衞門正吉、次を二郞左衞門正盛といひ、共に機を窺,ふこと幾星霜、(
慈光寺
由緖書)寬正元年の秋、將軍足利義政、畠山尾張守政長をして、同族伊豫守義就を討たしめた,斯くして文明五年
慈光寺
を創立し、蓮如の教化を助け、泉南の宗門大に興張した。,一子あり、觀心寺隱栖中に出家し、洛南東寺に抵り、賢周と號して眞言に歸したが、
慈光寺
に歸つて蓮如に歸依し
堺市史 第七巻
((五)善宗寺)
(五)善宗寺 善宗寺は多聞山と號し、【位置】新在家町西一丁字西六間筋にあり、【沿革】もと堺
慈光寺
末であつたが,、(
慈光寺
國國末寺控)後眞宗本派本願寺末に歸屬した。
堺市史 第七巻
((一〇)伊東義祐)
(寬政重修諸家譜卷第八百九十二)【
慈光寺
と義祐】堺
慈光寺
(現中之町東三丁)に義祐卽ち金柏院殿三位入道の,(金柏院殿三位入道壽像讚)同寺記錄に、義祐深く當寺に歸依し遂に來つて剃髮したと見え、(
慈光寺
記錄)近世
堺市史 第七巻
((一一)善教寺)
正祐高倉家に出で蓮如に歸依して應仁二年二月落飾して法弟となり、眞宗寺、
慈光寺
と共に、堺三坊主の一と稱せられた
堺市史 第七巻
((八五)津田宗及)
【當時の茶人】屢々宗及の茶會に出席してゐる堺の茶人に、野遠屋、油屋常言、春慶、
慈光寺
永賢坊、永福寺條阿
堺市史 第七巻
(插入圖版目次)
第五圖版 三好長慶墓碑 (京都市聚光院墓地)・・・・・・・・三五 第六圖版 伊東義祐畫像 (堺市
慈光寺
所藏,一休畫像 (京都市眞珠菴所藏)・・・・・・・・五四―五五 第十二圖版 楠木正吉(圓二坊賢知)畫像 (堺市
慈光寺
所藏
堺市史続編 第六巻
(第五巻)
げの書類控 699 14 明治7年3月 狭山池余水引取一件書類 708 15 真宗本旨、附
慈光寺
伝
堺市史続編 第六巻
([し])
750~751 繁田清 3-871,3-56 重田繁義 3-86 重久正 3-86
慈光寺
堺市史 第七巻
(目次)
・・・・・・・・六四五 (八)源光寺・・・・・・・・六四五 (九)寶光寺・・・・・・・・六四六 (一〇)
慈光寺
/ 1ページ