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堺市史 第七巻
((二四四)成安)
(二四四)
成
安
【正法寺の住僧】
成
安
は堺正法寺(中之町東三丁)の住僧である。法名は詳かでない。,【貞德の門人】始め半井慶友を師とし、後松永貞德に學び、(誹諧作者名寄)寬永の頃、詞宗として既に名を
成
した,(誹家大系圖)【堺の門人】門人に池嶋
成
政の外池嶋宗吟、多木正重、細谷柳夏がある。 / (二四四)
成
安
堺市史 第七巻
((七)安宅冬康)
(七)
安
宅冬康
安
宅冬康幼名は神太郞、攝津守と稱し、一舟軒と號した。,(阿州將裔記、三好家
成
立記、三好別記)永祿四年畠山高政、紀州根來の僧兵等を率ゐて、岸和田城を攻めた際冬康,(三好家
成
立記)斯くして冬康は歌人としても其名聞え、「いにしへをしるせる文の跡もうしさらすはくたる世ともしらしを,年二月堺顯本寺に宛て、同寺は海雲の位牌所で、寄宿の事は、長慶及び之虎(實休)が免許せしめた上は、異議なき旨の
安
堵狀,(
安
宅冬康書狀)冬康後淡路の須本に居つて、
安
宅本家を繼いだが、永祿七年五月九日松永久秀の爲めに長慶に讒 / (七)
安
宅冬康
堺市史 第七巻
((七)本成寺)
(七)本
成
寺 本
成
寺は登寶山と號し、【位置】寺地町東三丁字寺町にあり、日蓮宗本法寺末、寺格緋金襴跡。,【開山】文
安
元年久遠
成
院日親の開山で、【開基】桔梗屋重兵衞の開基である。,(日親上人御傳記)日親文
安
元年冬播磨東條鄕に於ける危急を脱して兵庫に到り、更に乘船して堺津に着岸し、(,日親上人德行記)石上に座して説法を試むること數日、桔梗屋重兵衞其教化を受け一宇を創建して本
成
寺と稱した,境内佛堂に文
安
中建設の開山堂、妙見堂、延享年中建設の擁護堂及び高座石室等がある。 / (七)本
成
寺
堺市史 第七巻
((一六六)谷 安殷)
(一六六)谷
安
殷 【正
安
の孫】谷
安
殷は通稱を長右衞門と稱し、正
安
の孫、父は勘左衞門
安
永(貞享二年六月十六日歿,之は白石の草するところで、
安
殷の意見に基くものである。,是より白石は
安
殷と親しく相交るに至つた。,、
安
井大僧正道恕に撰文を請ひ、之を鐫刻したもので、碑の側面に
安
殷の名を示して居る。,きを以て、祥雲寺の住僧等家名相續を圖つて
成
らず、祖先傳來の鎗、長刀其他重要書類は之を祥雲寺に預り、家財 / (一六六)谷
安
殷
堺市史 第七巻
((二三)成就寺)
(二三)
成
就寺
成
就寺は大法山と號し、【位置】宿屋町東三丁字寺町にあり、日蓮宗本圀寺末で、寺格紫金襴跡,(社寺明細帳、和泉名所圖會卷之二)【舊塔頭】寶永元年の記錄には本地院、玄龍院、要泉坊、
安
住院、十如院、,尊鎭法親王筆消息一幅、九條關白忠良筆日蓮大菩薩號一幅、宗祖日蓮筆十界曼荼羅一幅、豐臣秀吉消息一幅、日朗上人
安
陀衣一枚 / (二三)
成
就寺
堺市史 第七巻
((三)德泉菴)
【開基と開山】慶
安
元年松江宗
安
、母德泉追福の爲に創建し、清巖宗渭を請して開祖とした。,(松江宗
安
墓誌)寶永元年の記錄には、塔頭に圓
成
菴の名が見えて居る。,【墓碑】墓地には宗
安
を始め、宗
安
の父宗訥、其妻德泉、德泉の父譽田屋德隣及び宗
安
の子遠貞の墓碑等がある。
堺市史 第七巻
((一五)正法寺)
【蔡華院】塔頭蔡華院は、もと菴號を稱したが、細屋清心尼及び隱士文益荒廢を惜しみ再建し、延寶五年十一月
成
り,(社寺明細帳)【釋尊降魔
成
道圖】寺寶釋尊降魔
成
道圖一幅は中村彦左衞門暹羅より長崎渡航の船舶に託して之を,(釋尊降魔
成
道圖裏書、黃緣起)【古文書】其他官符宣(太政官牒河内西琳寺弘
安
四年五月)一卷、足利義勝寄進狀,(嘉吉二年十一月)、同義政
安
堵狀(文明二年九月)、同寄進狀(同二年)、同
安
堵狀(同四年二月)、同禁制狀,(同五年九月)、織田信長制狀、畠山式部少輔書狀一幅、松浦
安
太夫消息一幅、水野重政書狀一幅、【古寫經】稱讚淨土經一卷
堺市史 第七巻
((二一七)桔梗屋道職)
御物名物記所載の園城寺在銘茶壼及び古金襴裱裝舜擧筆鷄頭花の繪畫を所藏したが、後繪を宿坊本
成
寺(現寺地町東三丁,)に寄進し、本
成
寺より更に之を京都の妙滿寺に納め、同寺の什寶となつた。,(數寄者名匠集)慶
安
三年七月歿し、法號を悟眞院道職といふ。(本
成
寺過去帳)
堺市史 第七巻
((七四)谷宗臨)
寬正年間近江掾
安
正に二人の子があり、長兄を源三郞
安
種と稱した。卽ち谷家の始祖である。,をもよくし、(神國和歌正流血脈之卷)茶湯を千利休に學び、(數寄者名匠集)南宗寺の大林宗套に參禪して、大
成
の,道號を附與せられ、呼雲齋大
成
宗臨居士と號した。,(祥雲寺略記)宗臨の子に長左衞門時
安
(放牛齋立翁宗卓居士と號し、今井宗久の女を娶つた。,(神國和歌正流血脈之卷)時
安
の弟は卽ち大德寺の雲英宗偉である。
堺市史 第七巻
((四二)吉川惟足)
(四二)吉川惟足 吉川惟足諱は元
成
、幼名は千代松丸、通稱は五郞左衞門、壯年に及んで惟足と稱し、後萩原兼從,此時父廣元堺にあり、壯年に及んで江戸に抵り、仕官を求めてならず病歿し、惟足町家に養はるゝに至つたが、既にして慶
安
四年七月鎌倉,に隱栖して讀書し、翌五年堺に慈母の
安
否を訪ひ、刻苦して神書を吉田兼從に問ひ、終に印可を受け、明應三年には,(吉川視吾堂傳記(日本教育史資料九、國學者傳記集
成
)【著書】主なる著書に日本學則、神祇要編、神代卷家傳聞書,(國學者傳記集
成
)
堺市史 第七巻
((一二)祥雲寺)
大有宗爲首座を請して第一世とし、八月落慶し、妙玄菴は慈溪宗順首座の創立、自ら其始祖となり、同年八月落
成
した,又方丈の繪畫三面は狩野
安
信、書院は同興甫、臥龍窟は同秀信の彩筆にかゝる。,(祥雲寺略記)【谷正
安
後事を遺書す】開基正
安
(法號海岸宗印)は歿前遺書を裁し、澤庵に對しては後住の任意選擇,皇朝類苑十五册及び茄子型紫石硯一面は、澤庵原人論進講に際し、後水尾上皇より下賜せられたものであり、其他後陽
成
天皇綸旨一幅,、勸修寺經廣筆後陽
成
院奉書四幅、傳中將姫筆釋迦像一幅、土佐光重筆涅槃像一幅、雲谷等益筆澤庵和尚贊震旦六祖傳六幅
堺市史 第七巻
((二一三)平間長雅)
(二一三)平間長雅 【家系】平間長雅は伊勢の人、父佐次右衞門貞方江戸に出で、鈴木信
安
の女を娶つて寬永十三年長雅,(國學者傳記集
成
)【望月長好の門に入る】長雅長じて京都に出で、風觀齋良淳、六喩居士と號し、望月長好の門,(一説に八十二)(國學者傳記集
成
)【埋骨の地】平
安
名家墓所一覽には、洛北鷹峰に墓碑あるよしを記して居るが,(國學者傳記集
成
)
堺市史 第七巻
((一五四)中小路)
(大幣)其子孫は岡
安
氏を稱した。 ,【異說】杵屋喜音談話(大日本人名辭書所引)に、岡
安
の先は梅津少將藤原雅
安
から出で、應仁中周防の大内氏に,國王尚眞之を厚遇し、雅
安
の琵琶に堪能なるを知り、其臣阮
成
をして技術を修めさせた。,子岡
安
小四郞は始め中小路小吉といひ、父に從ひて三絃を能くし、後三河に徙つた。
堺市史 第七巻
((一)大阿彌陀經寺)
【舊新本尊】本尊は古來
安
阿彌作立像三尺一寸の阿彌陀如來を
安
置したが、第十九世玄恕京都堀河の佛工定
安
をして,、新に丈六の彌陀の座像を造立せしめ、第二十二世便譽の時に至つて
成
り、之を本堂に
安
置し、從前の古佛は之を,内佛殿に
安
置することゝした。,檀越尼崎屋道通の室宗福の遺言により、全資財を擧げて再興の資に供したもので、正保四年八間四面の本堂以下の堂宇を竣
成
した,次いで第二十四世
成
譽蓮阿に至り、更らに十一間四面の本堂を再建し、元文五年八月落慶した。
堺市史 第七巻
((八)天白稻荷神社址)
(堺殿馬場稻荷神社書上) 【奉行の崇敬】 石燈籠 天正 五、 二、吉日 石田 三
成
,同 十九、 二、吉日 富田庄左衞門 同 文祿 二、 二、 石田 重
成
,同 慶長 六、 二、吉日
成
瀨 正
成
同 十九、 五、吉日 朝倉 宣正, 八、 正、吉日 同 石燈籠 寶曆 十四、 五、吉日 坂部 平明 同
安
永, 十三、 八、 水野 忠一 石 橋 十五、 二、吉日 永井 尚德 石鳥居
安
政
堺市史 第七巻
((一八六)奧野小山)
(墓誌)【篠崎門下の四天王】大阪瓦町の人、篠崎小竹に學び、
安
藤秋里、橋本香坡、加藤訥堂と共に、篠崎門四天王,後專ら經學に心を潛め、業
成
つて教授した。,
安
政五年八月二十日享年五十九歳を以て歿した。【墓所】大阪市北區天滿西寺町圓通院に、墓碑がある。
堺市史 第七巻
((四四)廢專修寺)
)【本尊】本尊阿彌陀如來は運慶の作と稱し、明治四十五年二月國寶に編入せられ、外に杢阿彌作の齒吹如來、
安
阿彌作,の地藏菩薩像等を
安
置した。,歿後法燈將に廢せんとするを見、大阪の人豐田宇左衞門氏、第二十九世説譽を助けて、同三十七年三月所有地大阪市西
成
區川岸町
堺市史続編 第六巻
(第三編 近世)
登録農民の階層…582 慶長検地と家数改め…586 正保の人数改め…589 慶
安
の,618 年貢の形態…619 上神谷の石代納…621 米納のゆくえ…623 慶
安
期,の高揚 977 1 綿にかんする国訴 978 繰綿延売買会所反対訴願…978
安
永六,の改革…1108 3 その他の村方騒動 1110 嘉永四年踞尾村の改革…1110
安
政,1145 窮民の生活実態…1145 社倉設置…1147
安
民録…1149 2
堺市史 第七巻
((一八)興覺寺)
【本尊】本尊題目寶塔、釋迦、多寶二佛、【堂宇】本堂、庫裏、書院、門及び門番所あり、妙見堂は
安
政三年三月,(興覺寺調査書、社寺明細帳)本堂は昭和三年三月出火燒失したが、再建に着手し、今將に落
成
せんとしてゐる。
堺市史 第七巻
((二四)經王寺)
沿革】元和元年兵燹後三十五年間退轉に及んだが、江戸梅龍寺權大僧都日達、之を聞いて再興の念を起こし、松平
安
藝守,の簾中自昌院(法名清進信女)に請ひ、其外護によつて慶
安
五年八月功
成
り、落慶供養を行ひ、(經王寺文書)本尊佛,【本尊】本尊は題目寶塔、釋迦、多寶二佛上、行、無邊行、淨行、
安
立行の四菩薩である。
堺市史 第七巻
((一〇三)公巖)
二十歳京都に出で、近畿名德の門を訪ひ、
安
永年中
成
唯識論述記樞要、了義燈及び圓覺經疏等を硏究し、内典の外,(公巖上人事略)【異
安
心】公巖は當時三業
安
心、或は意義募、又は法體募等種々の異
安
心のあるを慨げき、自ら,、改悔文、正信偈通元記、一念多念證文、憲章記、止觀大意、天怠佛心印記、一心三觀略述、六字釋手記、因願
成
就濟輔記
堺市史 第七巻
((一四)水天宮址)
【沿革】同社は
安
政六年北灣戸北邊に創立せられ、以來永世講を組んで維持したが、(松原武次郞諸事
成
就扣)明治二十八年税所篤三氏北波止,神山鈴吉氏談)【舊址】當社鎭座の舊址は東南隅は同丁二十三番地永來
安
次郞氏住宅、西南隅は南海鐵道株式會社堺發電所木柵
堺市史 第七巻
((九)顯本寺)
(兩山歷譜)一説に眞言宗大顯寺の僧某法弟となり、寺檀を擧げて同宗に歸し、名を本
成
院日淨、寺を顯本寺と改,、文明五年九月には右衞門尉、天文十五年八月には河内守各禁制狀を寄せ、(各禁制狀)又同二十四年二月には
安
宅冬康亦前例,(當寺境内幷坪數繪圖)然して當寺は末刹兩本山に歸屬して以來、萎靡して振はず、維新後堂宇荒廢し、
成
證、自
成
,(明治二年願書)【本尊】本尊は題目寶塔、釋迦、多寶二佛、上行、無邊行、淨行、
安
立行の四菩薩、持國、廣目,(社寺明細帳)【什寶】什寶には刑部少輔、以下の各禁制狀、
安
宅冬康書狀、織田信長朱印狀、蓮如消息二幅、傳豐臣秀吉所用茶辨當一揃等
堺市史続編 第六巻
(第二編 中世)
第一章 中世社会の
成
立と堺 295 第一節 公家・武家両政権下の堺地方 296 1, 大鳥郡和田荘と和田氏 315 和田氏の系譜…315 和田荘の立荘…316 弘
安
三年,の相論…319 弘
安
四年の相論…320 以後の経過…323 和田氏の所領所職…324,と破綻 358 建武政権の
成
立…358 新政権の破綻…360 2 堺地方での戦い , 375 河内の守護…375 和泉の守護…378 摂津の守護…380 和泉
安
国寺
堺市史 第七巻
((六九)日演)
【唯識論講說】一時堺の常住寺(
成
就寺)に唯識論を講述し、諸宗の學徒多く其益を受けた。,後若狹長源寺の住職となり、又慶
安
二年紀州侯に聘せられて、妹脊山に住した。
堺市史 第七巻
((二二二)里見東白)
(里見東白墓碑銘)【墓所】
安
永九年五月二十九日享年六十六歳を以て歿し、(里見家過去帳)興覺寺(現堺市櫛屋町東四丁,(里見東白墓碑銘)【印譜】著書の中弄銕技淵は印譜を集
成
したもので、延享三年仲冬高志羪浩の序文がある。
堺市史 第七巻
((二二八)土佐光起)
(抹桑畫人傳、鑒定便覽)【鶉を畫くに長ず】殊に李
安
忠の圖に倣つて鶉を畫くに長じ、嘗て猫兒の躍りかかつた,(平
安
名家墓所一覽)【寶樹寺の靈位】堺市中之町東三丁寶樹寺の靈位には、壽光院靈譽常昭居士靈位、元祿四年辛未九月二十五日光起,一は開口神社所藏、元祿三年十月十五日に
成
つた大寺再興緣起で奧書に土佐左近衞將監光起入道、行年七十四法眼常昭筆,【子孫】光起の後光
成
嗣ぎ、以下光祐、光芳、光淳、光貞、光孚相嗣いで、それ〴〵歷世畫所預となつた。
堺市史 第七巻
((一一六)吉川俵右衞門)
【堺港修築の動機】【修築迄の經緯】【工事完
成
】
安
永六年偶々堺にあつて築港の急を感じ、翌七年願書を提出したが,、容易に容るゝところとならず、漸く寬政三年に至つて許され、文化七年に至つて總工事の完
成
を見るに至つた。,にして、注意精緻を極め、(吉川俵右衞門畫贊)創意以來三十有餘年、起工後二十年にして、漸く當初の志望を達
成
することが
堺市史 第七巻
((二〇)延長寺)
(二〇)延長寺 延長寺は醍醐山と號し、【位置】西湊町字中筋にあり、眞宗本派本願寺末、寺格自
安
地、【沿革,寶曆十一年十一月本堂の再建
成
り、落慶供養の式を擧げた。
堺市史 第七巻
((一)本願寺派堺別院)
(聞藏寺文書)明和三年蓮如廟の建築に着手し、
安
永七年九月法如其嗣光輝(文如)と共に臨場して慶讚供養を修,規模全く京都大谷の廟堂に則り、拜堂の丕承堂及び中間の中宗の額は何れも法如の書に
成
つた。,【本尊】本尊聖德太子作の阿彌陀如來は之を江戸別院に遷し、新に准如自刻の本尊を
安
置した。,廟堂の蓮如像は法如畫くところの黑衣の畫像で、
安
永七年慶讚供養の際に附與せられたものであるが、平常は之を,(本願寺通記)【失火】寬政十年正月佛供所より出火し、本堂、廣間、臺所、殿堂廻り等灰燼に歸し、表門、御
成
門
堺市史 第七巻
((二一二)半井卜養)
後に至り更に大阪にて出版せられたもの二種あり、何れも半紙判に縮めたもので、其一の
安
永本には、春隣の畫と,、左海半井瑞
成
の序文が加へられた。,(複刻卜養狂歌集附錄)別に拾遺一卷あり、
安
永九年大阪に於て出版せられたものゝ如く、同じく半井瑞
成
の序文
堺市史 第七巻
((四〇)伊藤吉左衞門)
【堺砲臺築造の功】又
安
政二年砲臺築造に與り、功勞少くなかつた。,(堺史料類纂)【墓所】
安
政三年二月九日享年五十九歳病歿、妙國寺先塋の次に葬つた。,(松軒伊藤君墓碣錄)法號を梅聲院信通日
成
居士といふ。
堺市史 第七巻
((一五)紅谷菴)
徒交々來住したが、元和以後寺地は遂に市民金屋伊右衞門の私有に歸し、堂宇亦頗る頽廢したが、(紅谷庵緣起)
安
政元年泉北郡信太村蔭涼寺,環溪密雲老和尚略傳記)の際當庵の荒廢を見て之を惜み、一貫五百匁を出金して之を讓受け、自ら來住して大修繕を加へ、僧侶養
成
の,法を講じ、遂に五十餘員の門侶を
安
居せしめた。
堺市史 第七巻
((三)長泉寺)
永觀二年七月九日僧奝然宋より歸朝の際、將來した佛像の一で、博多海濱の漁夫等結緣の爲め此處に一宇を造立して
安
置,(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)現在の本堂、鐘樓及び山門は總て欅材を以て
成
り、竹中作右衞門の建立で、本堂,右繪像は祐故信者之を當寺第十世然蓮社宛譽に讓り、承應三年八月十五日檀越奈良屋心譽慶
安
の子慶嚴之を補裝したものである
堺市史 第七巻
((九)廢禪樂寺)
【再興と開山】こゝに於て緣族谷正
安
二子に代つて之を再建した。,(祥雲寺略記)天和三年中村宗久、不盡菴の廢地を求めて諸堂を再興し、五月竣
成
した。,又觀音菩薩帝釋天及び宗祖菩提達磨の像を彫刻せしめて、之を法事堂に
安
置し、寢室を默雷、庫裏を正命、山門を
堺市史 第七巻
((四)神明神社)
社殿の工事九日で竣
成
したから、九日を一字に約めて旭社と號し、又奉行所から多くの梅樹を寄附せられたから、,然るに社地狹隘の爲め、
安
政二年十一月榮橋通二丁の空地へ移轉を出願し、同六年十二月に公許を得たが一時中止,し、慶應元年移轉決行、三年六月工事を竣
成
した。
堺市史 第七巻
((五〇)僊嶽宗洞)
)【堺の谷氏】堺の人谷眠牛齋宗本居士の第二子で、(僊嶽、雲英兩和尚畫像裏書、龍寶山祖師傳卷五)善三郞
安
光,辭世の偈にいふ、「末後捧頭、怒雷閃電、打二破虛空一、
成
二七八片一。」と。世壽五十三。
堺市史 第七巻
((一六八)三宅寄齋)
(慶長十八年刊徒然草奧書)石田三
成
辭を卑うし佐和山城に召して經史を講説せしめ治道に資せんとしたが、寄齋往來,便殿に講ず】斯して久しく輦轂の下に教授し、道を搢紳の間に唱へ、其道譽一時に高く、竟に叡聞に達して、後陽
成
上皇,【墓所】慶
安
二年六月十八日壽七十歳を以て、京都油小路の家に歿し、洛北鷹峰に葬つた。,蓋し此地は慶長中後陽
成
天皇より賜ふた所で、所謂鷹峰四十間四方塚といふものであると云ふ。
堺市史 第七巻
((四一)磯矢賴母)
安
政三年冬疾に罹つたが、猶ほ公務を怠らなかつた。,大阪天滿東寺町
成
正寺に葬り、法諡を日行といふ。(墓誌)
堺市史 第七巻
((二三)精進院日隆)
叔父に妙顯寺日霽の門弟日存、日純の兩僧あり、之を羨み、十歳同鄕の遠
成
寺に入つて落髮し、十八歳入洛、日霽,(本興寺囘答書)本興寺開山堂に
安
置せる堺の佛工淨傳作日隆の木像は、明治三十七年國寶に編入せられ、(兩山歷譜
堺市史 第七巻
((一九)由理滴水)
(近古禪林叢談、滴水禪師逸事)嘉永二年師命に依り、
安
藝佛通寺聹翁を助け、三年の後京都嵯峨廣澤の要行院に,十二年東上、本山再興の議を
成
案し、十七年官命により洛北林丘寺に兼住し、大に修繕の功を遂げた。,林丘寺に隱栖したが、三十九年再び出でゝ職につき、專ら伽藍再建を司り、三十二年一月二十日、將に大工事を完
成
して
堺市史 第七巻
((一八〇)河野鳳渚)
【家系】父を英信と云ひ、其先河野休故は周防岩國の人で、吉川監物の家臣であつたが、慶
安
の頃故あつて堺に徙,(進齋先生碑銘)【遺稿】文稿頗る多き中に、釣餘編は其主なるもので、孟子鑽は撰述の業半ばにして止み、大
成
を
堺市史 第七巻
((五一)古溪宗陳)
(續日本高僧傳卷第十一)同十四年秀吉は又萬歳山天正寺を舟岡山に創建せんとし、意見を徵したが奉行石田三
成
と,徒である千利休、秀吉の旨に忤ひ自刄を命ぜられ、【大德寺破壞一件】嘗て利休が大德寺の山門に自己の彫像を
安
置,同十九年正月豐臣秀長の卒するや、【豐臣秀吉法要導師】秀吉の懇請により法要の導師となり、文祿元年大光院の落
成
を,【禪師號敕謚】慶長元年十二月後陽
成
天皇は特に大慈廣照禪師の徽號を賜はつた。
堺市史続編 第六巻
(第五巻)
2 尾田八兵衛文書 47 1 文政12年10月 沈香屋仲間永世申合条目帳 47 2
安
政,12月 鉄砲改年寄血判起請文前書 241 6
安
永9年8月 大坂城内鉄砲修復関係文書控(その一), 242 7
安
永9年8月 大坂城内鉄砲修復関係文書控(その二) 244 8 文化10年9,7月2日 竹腰正晴書状 257 24 6月7日 林清兵衛書状 257 25 卯極月朔日
成
瀬隼人書状, 258 26 2月15日 野村正直書状 258 27 卯5月6日
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瀬隼人書状 259
堺市史続編 第六巻
(第四巻)
)卯月5日 いし書状 79 8 (
安
永元年)8月19日 西野新田妙光書状 80 9 (
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永元年,元治元年 末広講宿附帳 857 5 明治5年2月 堺県管内大鳥郡区別帳 861 6 金持ニ
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ル,6 延宝2年3月5日 田山堂跡地わけ証文 1077 7 延宝8年5月23日 延宝七年分釜室村物
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勘定帳,元和6年)閏12月12日 売木につき中盛次書状 1099 3 元禄9年8月13日 泉州国絵図作
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につき,小出家江戸表用向覚帳(抄) 1197 50 桜井神社文書 1199 1 天文20年7月25日
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願寺鎮守造営棟札銘写
堺市史 第七巻
((二六)日親)
出獄の後亦盛んに中國、九州、北陸を行化し、文
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元年十一月播磨東條の危難を免がれ、【堺の來化】再生の思ひをなして,卽ち篤信者桔梗屋重兵衞に倚り、其喜捨を受けて堺南樽屋町に登寶山本
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寺を建立し、南方教化の道場となし、長祿元年五十一歳自像,を彫刻して同寺に
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置し、其後京都の本法寺在住中脱落した齒牙一個を像中に納めた。
堺市史 第七巻
((一〇七)性海)
文政五年の
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居に讚阿彌陀偈を副講し、翌年の
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居及び本講に正信偈を講じた。,學
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つて鄕里に歸り、私塾を開いて空華學舍と稱した。僧鎔の上足に柔遠、道隱の二哲があつた。
堺市史続編 第六巻
(第二編 国際的工業都市・百万大都市をめざして)
河盛市長の胸像…435 先覚物故者の顕彰…435 与謝野晶子の顕彰…437 河井酔茗・
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西冬衛,との業務提携…479 ダンプカー災害…480 ダンプカー銀座…481 八幡製鉄堺工事
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全協力会,637 新生活運動推進協議会などの批判…638 給与改定への自治庁の横やり…639
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保闘争,対策…815 堺化学の煙害・海水汚染…816 続発する産業公害…818 2 交通災害と
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全運動,八号機の建設…843 三宝地区住民の公害病…845 野菜も被害…846 三宝地区環境
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全協議会
堺市史 第七巻
((二九三)中村富十郞)
一座を組織す】中村歌七其他の弟子を加へて一座を組織し、始めて新地北芝居に初狂言千代萩政岡、切狂言娘道
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寺,(松原武次郞世話事
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就扣)嘉永二年又堺南芝居に彦山の一味齋娘おその、日高川の庄司娘清姫を演じ、(近世日本演劇史,役者早料理)同六年江戸に下り、市村座に出勤し、中村福助の口上で大當りを取り、(役者武勇競)後堺に歸り、
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政二年二月十三日享年七十五歳,【墓所】堺本
成
寺(寺地町東三丁)に葬り、法號を妙松院光林三光日暉居士といふ。
堺市史 第七巻
((一二二)神南邊道心)
(神南還大道心事蹟)【發心して佛門に入る】【業績】而も其子幼にして佛門に入り、攝津東
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郡只新並莊村法明寺慈眼,亦厚く地藏を信仰し、町内の路傍に多くの石地藏を
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置した。,神南邊大道心事蹟)【御盃を賜はる】【改名】京都御室山八十八箇所の標石堙滅せんとするを歎き、再建を企てゝ
成
り
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