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堺市史 第七巻
((一二三)日傭長次郞)
(一二三)
日
傭
長
次郞 【堺の人】
日
傭
長
次郞は堺の人。,
長
次郞は此十株を以て、金子三十兩を借り、金若干を加へ、田畑五六反を購ふて之を耕作し、後屢々奉行所に召されて / (一二三)
日
傭
長
次郞
堺市史 第七巻
((二八)長源寺)
(二八)
長
源寺
長
源寺は永松山と號し、【位置】西湊町にあり、
日
蓮宗堺妙國寺末、寺格紫金襴跡。,【開基】天文二十三年三位權大僧都妙國院
日
祝の開創である。,(堺南北寺庵本末開基宗旨改帳、
長
源寺過去帳)第二世權大僧都
日
沾は、第三世
日
珖の師で、【
日
珖得度】
日
珖は,(
長
源寺過去帳)
長
源寺は
日
珖自筆の己行記、佛心歷代師承傳等には、頂源寺とあり、何時頃から改めたか、又其理由,【本尊】本尊は
日
蓮大士で、【堂宇】本堂、庫裏、納屋、門の外に三光堂がある。境内百十坪を占めてゐる。 / (二八)
長
源寺
堺市史 第七巻
((二〇)延長寺)
(二〇)延
長
寺 延
長
寺は醍醐山と號し、【位置】西湊町字中筋にあり、眞宗本派本願寺末、寺格自安地、【沿革,】延
長
二年創立、眞言宗の道場で鹽穴鄕舳松にあつた。,天正十三年八月和田教齋、法諱教西(慶
長
十八年十一月二十八
日
示寂、享年八十八歳)中興し、第六世受賢に至り / (二〇)延
長
寺
堺市史 第七巻
((八)三好長慶)
(八)三好
長
慶 三好
長
慶始めの名は範
長
、小字は千熊丸、更らに孫二郞といひ修理大夫に任ぜられ筑前守と稱,是より先き、同族宗三權を擅にして父元
長
を攻殺したので、
長
慶は之を郤けんとし、屢々之を細川晴元に請ふたが,(己行記、三好別記)是
日
長
慶は飯盛城に在つて、弟冬康、宗養及び紹巴等と、連歌會を催したが「すゝきに交る,後
長
慶は其罪なきを知り、怏々として樂まず、【卒去と祕喪】病勢を強め七月四
日
終に卒去した。,此時笑嶺導師となり、又十三
日
より三七
日
間に亙つて其養子義繼施主となり、【南宗寺の供養】南宗寺に於て莊嚴 / (八)三好
長
慶
堺市史 第七巻
((四一)善長寺)
(四一)善
長
寺 善
長
寺は將軍山と號し、【位置】神明町東二丁字寺町にあり、淨土宗粟生光明寺末であつたが,【沿革】三好政勝、父宗三の菩提所として創建したもので、天文十八年六月二十四
日
宗三戰死の
日
を以て開基の
日
,(善
長
寺緣起)【本尊】本尊阿彌陀如來、【堂宇】本堂、庫裏及び門外に觀音堂あり、境内二百三十三坪を有してゐる,永正十三年八月十三
日
宗三戰陣を堺に布き、網道場に宿泊した際感得したものと稱せられ、之を微笑觀音と稱し、,(善
長
寺緣起) / (四一)善
長
寺
堺市史 第七巻
((二八)長久寺)
(二八)
長
久寺
長
久寺は凌雲山と號し、【位置】中之町東二丁字片原下の町にあり、眞宗大谷派本願寺末、寺格別助音地,【開基】寬文三年五月
日
差五郞法名了玄の開基で、(
長
久寺調査書)【本尊】本尊は阿彌陀如來。 / (二八)
長
久寺
堺市史 第七巻
((四)三好政長)
(四)三好政
長
三好政
長
は
長
輝の弟持勝入道宗安の子で宗三と稱した。,天文十五年九月
長
慶、宗三は、遊佐
長
教と戰ふて克たず、【宗三と
長
慶の不和】終に和を講じた。,元
長
の子
長
慶は亡父の仇敵として宗三と善からず、やがて兩者の不和となり、細川晴元は宗三を援け、
長
慶は
長
教,(善
長
寺宗三位牌)善
長
寺の堂前に其墓碑がある。,後織田信
長
に降り、復德川家康に仕へ、寬永八年十二月十
日
歿した。享年九十六。 / (四)三好政
長
堺市史 第七巻
((二)三好長輝)
(二)三好
長
輝 三好
長
輝は又之
長
と云ひ、喜雲と號した。始め主膳正と稱し、後筑後守に改めた。,小笠原
長
清の二男、
長
房始めて阿波に住し、八世義
長
に至つて、三好郡に住し、よつて三好氏を稱した。,義
長
の孫は卽ち
長
輝である。,斯くして元
長
の歿後、
長
慶、義興、義繼の三代相繼いでこゝを治所としたと云はれてゐる。,に入つて捕へられ、此月十一
日
遂に細川尚春の子彦四郞の殺す所となつた。 / (二)三好
長
輝
堺市史 第七巻
((三)三好元長)
(三)三好元
長
三好元
長
(一に
長
基に作る)は
長
輝の子、筑前守と稱した。,而も諸將多く元
長
を晴元に讒したので、元
長
は畠山義英等と謀り、堺の南莊に據り、天文元年正月剃髮して海雲(,に求め、六月には一揆大擧して義宣を討ち、更らに元
長
の陣所南莊を攻むるに及び、【元
長
の慘敗】遂に慘敗して,時に天文元年六月二十
日
、殉死するもの七十餘人に及んだ。,第三圖版 三好海雲(元
長
)墓 第三圖版 三好海雲(元
長
)墓 / (三)三好元
長
堺市史 第七巻
((一二)小西行長)
(一二)小西行
長
小西行
長
は彌九郞と稱し、如清の子として豐臣秀吉に親任せられた。,に送られ、十月朔
日
三成等と與に京都に於て斬首せられ、三條河原に梟せられた。 ,
日
本西教史に據るに、【基督教徒としての行
長
】行
長
は英邁勇智の基督教信者で、ドム・オーギユスタンと稱し秀吉,の如く恥辱を蒙り、街衢を引廻はされ、刑死に處せらるるにあつたので、自殺をなさず、其死罪に定まるや、刑
日
面縳,(
日
本西教史下) / (一二)小西行
長
堺市史 第七巻
((一二)長谷川藤廣)
(一二)
長
谷川藤廣
長
谷川藤廣は通稱を左兵衞といふ。,【
長
崎奉行】慶
長
八年始めて德川家康に仕へ、同十一年より十九年に至る間
長
崎奉行を勤め、(寬政重修諸家譜卷第七百九十五,【切支丹教徒放逐】其間十四年十二月には肥前
日
野江城主有馬晴信と共に、阿媽港船を擊破し、十九年には幕命を,受けて肥前國有馬に抵り、切支丹教徒放逐の任に當り、(通航一覽卷百九十二、
日
本西教史下、本光國師
日
記十三,(堺本派本願寺別院鐘銘)同年十月二十六
日
享年五十歳を以て歿した。 / (一二)
長
谷川藤廣
堺市史 第七巻
((二)織田長益)
(二)織田
長
益 織田
長
益は信
長
の弟で、源五郞と稱し、天文十六年出生した。,(寬政重修諸家譜卷第四百九十二)【戰功】信
長
の武田征伐に當り、天正十年二月兵を率ゐて信濃に入り、木曾義昌,六月兄信
長
の弑せられた際には三條に在つたが、變を聞いて遁れ去つた。,(寬政重修諸家譜卷第四百九十二)【大阪城中の盟主】後料田各一萬石を、四男
長
政及び五男尚
長
に分ち與へ、其餘,【墓所】七年十二月十三
日
京都東山に卒し、建仁寺の正傳院に葬つた。享年七十五歳。 / (二)織田
長
益
堺市史 第七巻
((三)長泉寺)
(三)
長
泉寺
長
泉寺は天龍山玉光院と號し、【位置】新在家町東四丁字寺町にあり、淨土宗京都知恩寺末で、,(
長
泉寺緣起)【本尊の來由】本尊阿彌陀如來は傳毘首羯磨作赤栴檀木三尺三寸の立像で、永觀二年七月九
日
僧奝然宋,右繪像は祐故信者之を當寺第十世然蓮社宛譽に讓り、承應三年八月十五
日
檀越奈良屋心譽慶安の子慶嚴之を補裝したものである / (三)
長
泉寺
堺市史 第七巻
((二一三)平間長雅)
(二一三)平間
長
雅 【家系】平間
長
雅は伊勢の人、父佐次右衞門貞方江戸に出で、鈴木信安の女を娶つて寬永十三年
長
雅,(國學者傳記集成)【望月
長
好の門に入る】
長
雅
長
じて京都に出で、風觀齋良淳、六喩居士と號し、望月
長
好の門,【門人】有賀
長
伯は門人中の逸材であり、堺の谷
長
右衞門亦傳授を受けた一人として師より傳へられたといふ神國正歌正統血脈之卷一卷,
長
雅亦佛
日
寺慧極に參して居士號を受け、精剛院大喩居士元夢と稱した。,(天神社慶
長
二十年亂後記錄)寶永七年七月二十七
日
七十五歳で歿した。 / (二一三)平間
長
雅
堺市史 第七巻
((六九)半井利長)
(六九)半井利
長
半井利
長
は丹波重
長
の二男で、明重の弟に當り、明重に養はれ、父に繼いで典藥頭となり、,永正四年正月五
日
病を以て卒し、大德寺に葬つた。(半井家系圖)法名を擧明道三居士といふ。 / (六九)半井利
長
堺市史 第七巻
((四二)樋口兼長)
(四二)樋口兼
長
樋口兼
長
は均太郞と稱し、朱陽と號した。【丹南藩士】家世々河内の丹南藩に仕へた。,明治三十三年四月二十六
日
享年五十一歳を以て歿し、諡して靜孝といふ。 / (四二)樋口兼
長
堺市史 第七巻
((四八)松嶽紹長)
(四八)松嶽紹
長
【堺人半井氏】【大徳寺住職】紹
長
、字は松嶽、堺の人、俗姓半井氏、玉仲宗琇の法を嗣ぎ,(紫嚴譜略、寶山住持世記上)寬永三年三月朔
日
三井寺山内尾藏寺の專藏坊に示寂した。世壽七十一歳。 / (四八)松嶽紹
長
堺市史 第七巻
((一五九)中島長盛)
(一五九)中島
長
盛 【經歷】中島
長
盛通種太兵衞、貫齋と號した。,【七堂濱に砲術を試む】【中島流の始祖】
長
盛若冠武藝を勵み、殊に砲術を好み、(浪速人傑談上)武衞流を齋藤十郞太夫正房,門下頗る多く、諸侯亦爭ふて
長
盛を聘し、其技を傳習せんしたが、肯ぜずして寶曆十二年正月五
日
病歿した。 / (一五九)中島
長
盛
堺市史 第七巻
((三〇)日祝)
(三〇)
日
祝
日
祝は妙國院と號した。俗姓千葉氏。應永三十四年下總千葉郡に生れた。,文明五年四十七歳にして京師に上り、(本化別頭佛祖統記)妙法を弘通し、やがて
長
享二年三月權僧正に陞り、(,【頂源寺開創】卽ち永松山頂源寺で(本化別頭佛祖統記)現堺市西湊町に在る
長
源寺卽ちこれに當り、天文十三年,(
長
源寺記錄)寺は舊北莊にあり、其後西湊に移り、頂源は
長
源と改稱せられたものであらう。,【高弟】其上足に
日
言及び
日
沾がある。沾は頂源寺を言は頂妙寺を紹いだ。 / (三〇)
日
祝
堺市史 第七巻
((一七)小西行長屋敷址)
(一七)小西行
長
屋敷址 【所在】行
長
の屋敷址は宿屋町大道東側に當る。,行
長
の堺在住時代は比較的短く、記錄に傳はるものも無く、僅に其父如清の記事によつて之を知られる位である。,【諸説】卽ち文祿二年には如清病を堺に養つてゐるが、(
日
本西教史)之とても確とした場所が示されてをらぬから,つた宿屋町古繪圖には大道東側北角にある同族治右衞門屋敷の南隣に當り、西方二間間口の屋敷で、【舊址】今
日
の,(小西行
長
宅址之記) / (一七)小西行
長
屋敷址
堺市史 第七巻
((七八)日中)
(七八)
日
中
日
中字は省已、深草の
日
政とは莫逆の友であつた。,【詩文に
長
ず】幼より詩文に
長
じ、亦平生著述頗る多かつたが、終に之を留めなかつた。,妙法寺住職】後身延山に入つて幽棲し、次いで元祿の頃、堺妙法寺(中之町東三丁)に入り、同十四年正月十九
日
同寺 / (七八)
日
中
堺市史 第七巻
((五三)日統)
(五三)
日
統 【
日
統の門弟】
日
統は始め龍雲院、後佛眼院と號した。,堺に生れ、年少出家、妙國寺の
日
珖に師事し、永祿九年頂源寺に於て、
日
珖及び
日
航と與に
日
蓮述作の書を校合し,慶
長
四年洛東大佛殿供養について、妙覺寺
日
奧不受用の義を立つるあり、諸聖の招きにより行いて論難の衝に當つた,慶
長
八年正月十六
日
示寂した。(佛心歷代師承傳) / (五三)
日
統
堺市史 第七巻
((五二)日珖)
稍々
長
じて堺頂源寺(現西湊町
長
源寺)の第二世
日
沾に師事し、十七歳三井寺の勸學院宥尊に就いて、倶舍、唯識,五月相國寺に於て、織田信
長
に謁し、七月には本法寺の歌會に列席した。,是に於て同國勝瑞に至り、三好
長
春に謁し、專念宗の僧と宗論を鬪はし、數囘論義を重ね、終に之を折伏して感狀,六月二
日
信
長
本能寺に於て弑せられ、其報至るや、家康は急遽歸國せんとした。,(治要錄、佛心歷代師承傳)慶
長
三年八月二十七
日
春秋六十七歳を以て、中山に示寂した。 / (五二)
日
珖
堺市史 第七巻
((五八)日述)
(五八)
日
述
日
述は龍瑞院と號した。姓は伊達氏、【堺の人】堺の人。,妙國寺の
日
珖に師事し、博聞強記を以て知られた。,慶
長
五年正月より二月に至る間、【隨喜品講說】隨喜品を講ずること四十座に及び、人皆精力の旺盛に感じた。,【妙國寺第三世】妙國寺の第三世となり、又中山を督し、同十二年四月二十二
日
遷化した。 / (五八)
日
述
堺市史 第七巻
((六一)日審)
(六一)
日
審
日
審字は文嘉、靈鷲院と號した。,(本化別頭佛祖統記)【出生の奇聞】京都江村久茂の子で、慶
長
四年六月出生した。,
日
東之を養育し、十二歳の時、師事して教養を受けたとある。),八歳惠光寺の
日
玄に師事し、三十一歳若狹
長
源寺の住職となつた。,(
日
宗著述目錄) / (六一)
日
審
堺市史 第七巻
((三六)日助)
(三六)
日
助
日
助は蓮光院と號した。,【成就寺第六世】堺成就寺の第六世で、京都本圀寺の第十四世となり、(堺史料類纂)花山家太政大臣藤原政
長
の,【天文法難】天文五年七月比叡山の衆徒等大擧して
日
蓮の宗徒と鬪ひ、火を放つて京都内外の同宗寺院を燒き、諸刹悉,【堺避難】是時
日
助等難を堺に避け、暫く成就寺に錫を駐め、大に復興に努め、諸伽藍を一擧に成就した。,住職たること三十二年、天文二十二年七月十四
日
示寂した。(本化別頭佛祖統記) / (三六)
日
助
堺市史 第七巻
((六九)日演)
(六九)
日
演 【勸修寺家の一族】
日
演字は良住、通玄院と號した。京都の人、勸修寺家の一族である。,早く頂妙寺
日
瑞について得度し、六條談林に入つて内典を學び、晚年中正院
日
護に從ひ、本化の奧旨を受けた。,後若狹
長
源寺の住職となり、又慶安二年紀州侯に聘せられて、妹脊山に住した。,明曆三年權律師に任ぜられ、延寶六年五月六
日
病を以て示寂した、享年六十七。,【著書】深草の
日
政とは道交頗る深かつた。(本化別頭佛祖統記) / (六九)
日
演
堺市史 第七巻
((二六)日親)
(二六)
日
親
日
親は應永十四年上總武射郡埴谷村に生る。,父は埴谷平次左近將監、幼にして埴谷の妙宣寺に入り十四歳正中山法華寺の第六世
日
暹に就いて得度し、名を
日
親,【冠鐺
日
親】冠鐺
日
親の名もこゝに起つたのである。,卽ち篤信者桔梗屋重兵衞に倚り、其喜捨を受けて堺南樽屋町に登寶山本成寺を建立し、南方教化の道場となし、
長
祿元年五十一歳自像,(
日
親上人一代記傳)斯くして
長
享二年九月十七
日
世壽八十二歳を以て示寂した。 / (二六)
日
親
堺市史 第七巻
((六一)日通)
(六一)
日
通
日
通は功德院と號した。【堺の人】堺の人である。,【
日
珖の高弟】妙國寺の開山
日
珖に師事して宗乘を究め、
日
曉、
日
統等と與に、上足に列した。,(佛心歷代師承傳、治要錄)
日
通其師を尊崇するの念厚く、慶
長
三年八月
日
珖の遺骨を收め、之を本法寺の妙雲堂,(
日
通遺書)
日
通晚年宗祖
日
蓮の書法を學んで之を能くし、(本法寺調査書)又茶湯にも通じた。,(本法寺調査書) 第二十圖版
日
通木像 第二十圖版
日
通木像 / (六一)
日
通
堺市史 第七巻
((四七)日重)
(四七)
日
重
日
重は一如院と號した。京人某の子、六條本國寺の南泉坊に入つて出家した。,【泉南三勝會】堺に
日
珖、
日
諦、
日
詮の三光勝會あり、偕に斷金の交を結んで互に主伴となり、天台の三大部を講習,(草山集卷六)【六條談林の講師】爾來講席
日
に盛んとなり、六條本國寺の大衆相議し、其境内に談林を設け、求法院,慶
長
七年身延の招請を固辭し、高足孝順(
日
乾)をして之に代らしめた。,元和九年閏八月六
日
病んで逝去した。年七十五。 / (四七)
日
重
堺市史 第七巻
((二三)精進院日隆)
(二三)精進院
日
隆 精進院
日
隆字は深圓。法華宗舊八品派の開祖である。,越中桃井右馬頭尚儀の子、幼名
長
一麿、元中元年十月出生した。,叔父に妙顯寺
日
霽の門弟
日
存、
日
純の兩僧あり、之を羨み、十歳同鄕の遠成寺に入つて落髮し、十八歳入洛、
日
霽,卽ち今の顯本寺で、同姓僧
日
淨をして住持たらしめた。(兩山歷譜)後直弟本覺院
日
陽は、本受寺を開創した。,(寺院誌參照)寬正五年二月二十五
日
享年八十一歳を以て示寂。 / (二三)精進院
日
隆
堺市史 第七巻
((六八)日比屋了慶)
(六八)
日
比屋了慶 【堺の豪族】
日
比屋了慶は堺の豪族である。,
日
本西教史に、ジャック・ヒンフラ・リョウケイとあるは、卽ち此人である。,恰も西曆千五百九十六年(慶
長
元年)に起こつた大震災に、京都、伏見、大阪等の被害甚だしく、堺も亦其數に漏,(
日
本西教下史)【茶事に通ず】了慶亦茶湯にも通じて居り、其所持した藤癭立德は、後小島屋道察の有に歸した / (六八)
日
比屋了慶
堺市史 第七巻
((二七〇)大黑常是)
是より先、堺では常是の外に、南鐐座と稱し、桑原左兵衞、
長
尾小左衞門、村田久左衞門、郡司彦兵衞及び
長
谷又兵衞等,(
日
本貨幣史、末吉文書)銀吹人は銀座に於ける技師
長
である。,(
日
本貨幣史、金銀圖錄二)【駿府銀座】同十一年駿府にも亦銀座を設け、常是並びに二男
長
左衞門をして、鑄造,常是寬永三年三月五
日
歿し、(
日
本貨幣史)法號を本性院常是
日
如といふ。,(
日
本貨幣史)
堺市史 第七巻
((九)北村左吉)
(九)北村左吉 北村左吉は安政元年十月十三
日
、金澤藩士の家に生れた。,明治十年の交、堺吾妻橋畔に來り寓し、十一年代言人の免許を受け、【堺代言人組合
長
】十四年堺代言人組合
長
に,推され、翌十五年大阪代言人組合の副會
長
となり、二十三年大阪辯護士會の組織に際し副會
長
に擧げられた。,三十九年四月
日
露戰役の功により、勳四等旭
日
小綬章を授けられた。,同十年五月二十五
日
享年六十八歳、材木町東三丁の自邸に歿した。
堺市史 第七巻
((一〇)北田豐三郞)
(一〇)北田豐三郞 北田豐三郞は嘉永五年六月二十二
日
、車之町東四丁に生れた。,議
長
、【府會議
長
】並びに府會副議
長
或は議
長
たること前後各三囘に及んだ。,【堺市
長
】同年十月堺市
長
に就任し、【藍綬褒章受領】二十七年八月二十七
日
藍綬褒章を授與せられ、二十九年二月辭職,、
日
本赤十字社大阪支部堺委員部協贊委員、同收入委員、堺市教育事業調査委員、同水道事業調査委員、同臨時市勢調査委員,晚年久しく病床にあつたが、大正十四年一月二十三
日
享年七十四歳を以て卒去した。
堺市史 第七巻
((六)細川晴元)
其幼兒は、遂に翌四年三月十五
日
堺北の釋迦堂(現福成寺であらう)に於て自殺してゐる。,閏五月三好筑前守等は、住吉の澤の口、遠里小野に、三好山城守等は、吾孫子、苅田堀に陣し、六月四
日
長
基は敵,【高國の敗死】高國敗れて尼崎に走り、八
日
終に大物の廣德寺に於て自殺した。,五月本願寺光教晴元に應じて、
長
基と堺浦に戰ひ、
長
基利あらず、六月二十
日
顯本寺に入つて自殺した。,晴元は父
長
基の事により
長
慶と善からず、十七年
長
慶は氏綱に屬した。
堺市史 第七巻
((五六)鹿喰善二郞)
(五六)鹿喰善二郞 善二郞幼名音吉、善平の
長
男で、嘉永元年七月十三
日
、南旅籠町西三丁に生れた。,(墓誌)同家は蓋し
長
曾我部元親を織田信
長
に推擧した、堺の町人宍喰屋の後裔であらう。,慈悲心に富み、【鹿喰銀行經營】先代鹿喰銀行の事業を繼いで經濟界に活躍し、更に釀造及び魚問屋を創營して
日
夜懈,明治四十年十二月二十九
日
享年六十歳を以て歿した。法號を釋壽光といひ、墓碑を南宗寺の塋域に營んだ。
堺市史 第七巻
((七)安宅冬康)
(阿州將裔記)三好元
長
の三男で、
長
慶及び義賢(實休)の弟に當る。,翌五年三月實休は久米田に陣したが陣中に於て、夢に祖父之
長
(喜雲)が父元
長
(海雲)と同列で、 ,草枯らす霜また今
日
の
日
に消て 因果は此に廻來にけりとの和歌を詠ずるを見、翌朝之を弟冬康,大林和尚塔銘)是より先き、天文二十四(弘治元)年二月堺顯本寺に宛て、同寺は海雲の位牌所で、寄宿の事は、
長
慶及,(安宅冬康書狀)冬康後淡路の須本に居つて、安宅本家を繼いだが、永祿七年五月九
日
松永久秀の爲めに
長
慶に讒
堺市史 第七巻
((九)顯本寺)
斯して
日
隆の法弟
日
淨を開山としたのは寶德二年のことであつた。,(兩山歷譜、大
日
本寺院總覺)享祿五年本願寺の門徒細川晴元に黨して、【三好元
長
の自殺】三好元
長
を堺に攻め,六月元
長
戰ひ利あらず、當寺に入つて自殺した。,【墓碑】境内三好元
長
の墓碑は、高さ二尺の五輪塔で、表面に歸本海雲善室大居士、裏面に天文二癸巳六月二十
日
,又高三隆達の墓には、自在院隆達、慶
長
十六子十一月二十五
日
、當院開山年八十五と刻されてゐる。
堺市史 第七巻
((八)大西五一郞)
同年七月選まれて收入役に就任し、二十六年九月退任、【堺市
長
】次いで二十九年二月市
長
となり、爾來政務に鞅掌,市立堺商品陳列所
長
、第五囘内國勸業博覽會評議員、
日
本赤十字社堺市委員
長
或は同委員部協贊員及び明治神宮奉贊會大阪支部評議員等幾多,其間、三十七、八年事件の功により、勳六等旭
日
章、四十五年韓國併合紀念章、大正四年大禮記念章及び同五年には,六年一月偶々衆議院の解散に際して歸鄕し、有志の推擧により、再起を畫策しつゝあつたが、二月二十三
日
大濱旭館,の
長
節會に列席中、急性腦溢血症に罹り、享年六十歳を以て歿し、遺骨を超願寺に葬つた。
堺市史 第七巻
((一一)三好存保)
(一一)三好存保 三好存保は義賢の二男、
長
慶の弟で、孫六郞と稱した。,(阿州將裔記、三好別記)十河一存の養子となり、【存保と堺】
長
慶の命に從ふて堺に居り、河、泉兩國を治めた,天正六年正月阿波勝瑞城に治し、同十年八月
長
曾我部元親と戰ひ、利あらずして讃岐に遁れた。,(三好家成立記)後豐臣秀吉に仕ヘ、(三好別記)十四年十二月十二
日
豐後國年滿に於て戰死した。,(本能寺
日
仁編三好略記)
堺市史 第七巻
((一七二)谷 忍齋)
の囘祿に際し、燒損せる安産如意輪觀音の緣起を復し、又同十三年には新に向泉寺の緣起を作り、高辻中納言總
長
の,の外題、同五月二十七
日
五條中納言爲範、同九月四
日
外山參議藤原光和の奧書、内箱は同月十二
日
高辻侍從冬
長
の,忍齋在京の際卽ち享保十七年九月前者は誰が袖、後者は
長
月の銘を、
日
野前大納言資時に得、其記を作り、一を香木誰,が袖の記、他を香木
長
月の記と稱した。,(香木誰が袖の記、香木
長
月の記)【著作】有職故實及び花香兩道に關する謄寫の典籍頗る多く、別に官位令私考等
堺市史 第七巻
((四五)高山保次郞)
【岩崎良世に學ぶ】父の歿後は岩崎
長
世に入門して專ら古學を修めた。,、次いで區
長
となつた。,七月依願免官となり、次いで十五年十二月區
長
の職を辭した。,(苞居隨筆)【詠進の和歌御撰に預る】
長
世の歿後は尾崎正明、吉川躬行、渡邊重春等の先輩と交り歌道に專心し,(明治三十四年三月八
日
發行大阪朝
日
新聞第六千八百五十三號)明治四十年十一月三
日
壽七十を以て病歿した。
堺市史 第七巻
((八二)油屋常祐)
(八二)油屋常祐 油屋常祐は、油屋(伊達)常言の子で、【
日
珖の伯兄】妙國寺の開山
日
珖の兄である。,(全堺詳志卷之下)元龜四年四月、織田信
長
岐阜から上洛して堺の名器を覽んとて、松井友閑、丹羽
長
秀に命じて,、此旨堺の南北に觸れさせたが、所持の者擧つて出陳した中で、信
長
の意に協ひ留置かれたものゝ一に、常祐所持,(堺鑑下)天正七年七月四
日
卒去。法號を信行院常祐
日
德といふ。
堺市史 第七巻
((八)妙法寺)
(八)妙法寺 妙法寺は
長
榮山と號し、一に二條半と呼ぶ。,せられた區域は槪ね舊に比して減少せられたが、當寺は京都の茶屋四郞次郞に倚り、同家祖先の位牌所と稱し、政所
長
谷川藤廣,鐘樓は革屋道也の女妙也の建造、梵鐘は住吉屋千(法名妙法)及び其妹奈良屋
長
(法名妙也)の寄進にかゝる。,淨行、安立行の四菩薩、持國、廣目、毘沙門、增
長
の四天王、文殊、普賢の二菩薩である。,社寺明細帳)釋迦、多寶の兩尊は茶屋新四郞、文殊、普賢の二像は奈良屋妙也、四菩薩は筆屋友益、四天王は絲屋
長
右衞門
堺市史 第七巻
((四〇)渡邊重春)
其家代々古表八幡宮に奉仕して大宮司となり、祖父重名は本居宣
長
の門下の巨擘であり、父重蔭も亦和歌を善くした,後又中學校大助教となつたが(舊中津藩學制(
日
本教育史資料三))【神職】六年官幣大社廣田神社大宮司兼大講義,少教正に進み、正七位に敍任、十三年九月丹生川上神社宮司、十六年十二月大鳥神社宮司に歷任、二十三年五月九
日
病,を能くす】
長
歌に至つては詞壇獨步の稱があつた。,、東京
日
記、和歌浦の
日
記、龍田考辨、參考宇佐宮緣起、櫻園集、櫻園
長
歌集、櫻園文集、櫻園祝祠集、櫻園詩集等
堺市史 第七巻
((一八七)廣瀨旭莊)
豐後
日
田の人、淡窻の弟で、龜井昱に學んだ。,聽者僅に隣寺善
長
寺の僧、安石其他の二三子に過ぎなかつた。,(
日
間瑣事備忘) 【詩才】旭莊詩文に
長
じ、清儒愈曲園は稱して東國詩人の冠とし、其才氣橫溢變幻、殊に,
長
篇大作に
長
じ、片言單詞も亦永く味ふべきであると評し、齋藤拙堂も其集に敍して、吉甫の詩才縱橫にして、泉,(
日
間瑣事備忘跋)【著書】著書に、宜園百家詩編、高青邱詩抄、梅墩詩鈔、旭莊小編、九桂草堂隨筆、
日
間瑣事備忘等
堺市史 第七巻
((七)小向寬雄)
天保十二年正月大阪に出れ、明治二年六月若松縣出仕、九月同縣少屬に任ぜられて以來、十九年に至る間、福島、中野、
長
野,【堺區
長
】斯くして十九年八月大阪府屬より堺區
長
兼大鳥郡
長
となり、奏任四等に敍し、下級俸を下賜せられ、十一月正七位,(小向寬雄履歷書)大正十三年七月二十二
日
享年八十四歳を以て東京に逝去、赤坂區靈南坂町陽泉寺に其墓碑がある
堺市史 第七巻
((五一)古溪宗陳)
長
じて驢雪霸公に就いて得度し、幾何ならず足利學校に遊んで外典を修め、後大德寺の江隱宗顯に參じ、春屋宗園等,道譽一世に高く、【秀吉の崇信】頗る豐臣秀吉の崇信する所となり、同十年秀吉總見院を大德寺内に創建し、織田信
長
の,功德場となすに及び、請して、開祖たらしめ、信
長
の葬儀には導師となつた。,【禪師號敕謚】慶
長
元年十二月後陽成天皇は特に大慈廣照禪師の徽號を賜はつた。,翌二年正月十七
日
世壽六十六歳を以て示寂した。著書に蒲庵稿二卷がある。(續
日
本高僧傳第十一卷)
堺市史 第七巻
((一一)桃源宗悟)
(延寶傳燈錄卷第二十一)永德二年季秋、化緣將に終らんとするの
日
、其法嗣喬木堂、其畫像を作つて語を索めた,宗悟之に讚して「杜機吾喪我、應物渠是誰、縱有傳神妙、僧繇猶不知、昨夜
長
鯨呑海水、珊瑚枝上月華奇。」,(桃源和尚畫像自讚)次いで同年九月四
日
示寂した。(
長
松山禪通寺年鑑)
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