機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
キーワード一覧
堺市立中央図書館/堺市史
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 25件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
堺市史 第七巻
((六〇)玄恕)
(淨土列祖傳卷之五)【
旭蓮社
十九世】
旭蓮社
の第十九世である。,(
旭蓮社
緣起、淨土列祖傳卷之五)道德堅固、知識深淵に、且つ能書の聞こえがあつた。,【
旭蓮社
隱栖】既にして老境に達し、
旭蓮社
開山澄圓菩薩の遺德を慕ひ、大智寺を辭し、堺奉行石河土佐守の斡旋,により、遂に
旭蓮社
に隱栖した。,(
旭蓮社
緣起)
堺市史 第七巻
((九四)成譽蓮阿)
【
旭蓮社
二十四世】十歳剃髮して增上寺に上り、
旭蓮社
第二十四世に住持たること二十六年、(墓誌)是より先、,【
旭蓮社
緣起選述】其後、曩きに寬保二年三月第十九世聖譽玄恕闢くところの、所謂常修不斷念佛三萬日の囘向を,卽ち
旭蓮社
緣起上中下の三卷である。(
旭蓮社
緣起)寶曆七年正月十八日示寂した。世壽五十八、法臘四十八。
堺市史 第七巻
((八二)便譽)
性淳朴清廉、豫て禪律の道行を學び、遂に增上寺を出でゝ游歷し、近畿に來つて堺
旭蓮社
を訪ふた。,【
旭蓮社
二十二世】時に同寺には住持なく、便譽の玄恕法孫たるを聞き、山内の衆僧住職たらんことを請ひ、遂に,(泉州堺
旭蓮社
緣起)
堺市史 第七巻
((三七)燈譽)
(三七)燈譽 【
旭蓮社
第十四世】燈譽良然は
旭蓮社
第十四世の住職である。,(
旭蓮社
緣起)三社法樂和歌は、住吉百首の中勅點二十七首、玉津島百首の中御點二十五首、聖廟百首の中同二十七首,勅點三社法樂和歌一卷、勅點彌陀四十八願和歌一卷、同勅點の添狀)自筆の勅點三社法樂和歌一卷及び同四十八願和歌一卷は、現に
旭蓮社
堺市史 第七巻
((六)鹽風呂址)
(六)鹽風呂址 【所在】
旭蓮社
所屬の鹽風呂は大町字西六間筋東側にあつた。,【元祿二年の狀態】元祿二年の堺大繪圖には大町の西六間筋に西面して
旭蓮社
祠堂掛屋敷と記し、所在町名を鹽風呂町,此境域も明治以後一私人に賣却せられ、藥師如來は
旭蓮社
へ移され鹽風呂は遂に廢止せられた。
堺市史 第七巻
((一)大阿彌陀經寺)
(一)大阿彌陀經寺 大阿彌陀經寺は甘露山と號し、一に
旭蓮社
と云ふ。,(
旭蓮社
緣起、澄圓菩薩傳)第二世澄嚴、三世文惠、四世道譽は何れも皆澄圓の高足である。,(
旭蓮社
緣起)第十四世燈譽は當寺在住中和泉佐野及び貝塚に各上善寺を、同春木に西福寺を創建した。,同二十年二月後西天皇の皇女寶鏡寺宮染筆の
旭蓮社
の大字を下賜せられ本堂の楣間に揭げた。,第九十一圖版 大阿彌陀經寺(
旭蓮社
)全景 第九十一圖版 大阿彌陀經寺(
旭蓮社
)全景
堺市史 第七巻
((一三九)薗 壽齋)
夙に
旭蓮社
の住職成譽等に親炙し、千部玅典を提唱せんことを發願し、其功業を成就した。,【墓所】明和四年九月十三日卒去、壽八十歳、
旭蓮社
に葬り、薗壽齋諦譽幽憲善休居土と諡した。(墓誌)
堺市史 第七巻
((一三八)中村元俊)
【墓所】
旭蓮社
に葬り、法諱を玄周齋顯譽事中以現居士といふ。 ,【妻佐與】【墓所】妻佐與諱は貞現、婦德あり、明和三年三月四日享年八十歳を以て歿し、
旭蓮社
に葬られた。
堺市史 第七巻
((五)荒神堂址)
【元祿二年の規模】荒神堂を圖示した元祿二年の堺大繪圖には樽屋町一丁目にあつて北面し、東は
旭蓮社
、西は樽屋町一丁目筋,【舊址】地境域の現在地は北隣の源光寺、東隣の
旭蓮社
が今往時の所に同樣の境域を有し、西南の兩町筋も亦變る
堺市史 第七巻
((二)大阿彌陀經寺)
所在】慧遠流淨土宗本山として我邦蓮社號の權輿となつた智恩院末大阿彌陀經寺は寺地町東三丁にあつて、一に
旭蓮社
,第百十二圖版 大阿彌陀經寺見取圖 第百十二圖版 大阿彌陀經寺見取圖 第百十三圖版
旭蓮社
全景,(和泉名所圖會) 第百十三圖版
旭蓮社
全景(和泉名所圖會)
堺市史 第七巻
((二)九艘小路)
(二)九艘小路 【所在】九艘小路は寺地町東三丁
旭蓮社
北門筋の俗稱で、【由來】神功皇后三韓より御凱陣の
堺市史 第七巻
((三〇〇)高橋耕友齋)
天保十二年十二月十三日享年七十一歳を以て歿し、【墓所】
旭蓮社
に葬つた。(墓誌)
堺市史 第七巻
((六二)江雪宗立)
(寶山住持世記上、紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【堺の人】【
旭蓮社
に得度】堺に生れ、始め
旭蓮社
に入つて
堺市史 第七巻
((八)澄圓)
(
旭蓮社
緣起)大鳥郡吏義貞永仁元年七月家原文殊堂に祈請し之を得て子養するところと云ふ。,正中元年後醍醐天皇の勅により泉州大鳥郡堺濱に廬山を移し、【本朝廬山の創建】之を本朝廬山と號し、精舍を建てゝ
旭蓮社
,【高弟】
旭蓮社
第二世澄嚴、第三世文惠、第四世道譽等は皆其高足である。(澄圓菩薩略傳)
堺市史 第七巻
((二四二)一艸舍丹雀)
【壽碑の所在】嗣子なく、門人等相胥つて壽碑を
旭蓮社
の兆域に建てた。
堺市史 第七巻
((二)舳松神社址)
同社は一に九本松明神とも云ひ、(堺鑑、社寺明細帳)合祀當時
旭蓮社
の境内の東北隅にあつた。
堺市史 第七巻
((一二二)神南邊道心)
(指吸重喜日記)又
旭蓮社
の爲にも勸進し、本堂、庫裡及び屋根の總修繕をなし、二十五菩薩練供養の、假面裝束等,(堺史談會誌第五號、神南邊大道心事蹟)【墓所】
旭蓮社
境内に墳墓があり、石地藏の大座像に、神南邊大道心墳
堺市史 第七巻
((一六〇)高橋興勝)
【墓所】翌年正月門人等相謀つて、碑を堺
旭蓮社
(寺地町東三町)の境域に建てた。
堺市史 第七巻
((四四)大島良次郞)
曾て大阪府師範學校に於て薰陶を受けたるもの相謀り、弟子及び故舊五百有餘人、【紀念碑】四十一年三月碑を
旭蓮社
堺市史 第七巻
((五九)天野六兵衞)
より先、六兵衞に就いて技を習ふ者、其德を旌表せんが爲に相胥り、【壽碑】三十三年二月壽碑を寺地町東三丁
旭蓮社
境内
堺市史 第七巻
((九)阿彌陀寺)
寺傳に云ふ、【沿革】開山見性直空堺
旭蓮社
に來り、建治二年五月宿院町西三丁字濱六間筋南へ入る西側に一宇を
堺市史 第七巻
((一)行基)
和泉名所圖會卷之二)【向泉寺井鹽風呂】向泉寺の井、鹽風呂亦行基の開鑿に係るといはれ、更らに(向泉寺及び
旭蓮社
緣起
堺市史 第七巻
(插入圖版目次)
鹽穴寺緣起[○部 分] (堺市鹽穴寺所藏)・・・・・・・・五五三 第九十一圖版 大阿彌陀經寺 (
旭蓮社
,・・・・・・・・七五〇―七五一 第百十二圖版 大阿彌陀經寺見取圖・・・・・・・・七五三 第百十三圖版
旭蓮社
全景
堺市史 第七巻
((一)開口神社)
である)にあつた無格社矛神社(祭神息氣長足姫尊)を末社松風神社に合祀し、同じく寺、地町東三丁字内農人町
旭蓮社
北門内
堺市史続編 第六巻
([き])
玉円寺(甲斐町) 2-1107 極東ゴム(株) 3-720 玉甫和尚 5-281
旭蓮社
/ 1ページ