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堺市史 第七巻
((五)本源院)
(五)
本源院
【位置】
本源院
は南旅籠町東三丁南宗寺境内にある同寺塔頭の一である。,(堺史料類纂、
本源院
鐘銘)もと本源菴と稱したが、享保三年八月院號に改めた。 / (五)
本源院
堺市史 第七巻
((三)本源院道祐)
(三)
本源院
道祐 【眞宗寺開基】道祐は堺眞宗寺の開基で足利義氏の第四子祐氏と稱したと傳へてゐる。,(信證院眞宗寺略緣起、泉州志卷之一)後
本源院
と號し、興國七年六月十八日示寂した。享年九十三。 / (三)
本源院
道祐
堺市史 第七巻
((七九)密玄宗要)
(南宗寺歷世年譜)【
本源院
開山】次で元祿年中南宗寺内に
本源院
を創設して其開祖となり、(諸寺院明細帳)同十五年七月十二日世壽七十二歳,を以て示寂、(龍寶山大德禪寺世譜)
本源院
に葬つた。
堺市史 第七巻
((二三一)源 恭義)
法名は玄義恭義信士、(
本源院
過去帳)
本源院
の塋域に墓碑を營み、源恭義之墓と題してゐる。
堺市史 第七巻
((八〇)剛山宗柔)
(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【
本源院
二世】南宗寺の塔頭
本源院
の第二世で、小柴菴を兼知し、同五年十一月七日世壽五十三歳
堺市史 第七巻
((一七七)草加驪川)
(慶長以來諸家著述目錄)南宗寺内
本源院
の墓地に、安永七年に建てた壽藏碑があり、碑面に與々如軒穆風義扇居士,【墓所】寬政二年八月四日大鳥郡(現泉北郡)深井村稱讚、寺に於て歿し、
本源院
の兆域に葬つた。
堺市史 第七巻
((一八五)高橋士得)
年既に久しきに至り、心之を傷み、弘化三年齡七十歳の時、知友東畡に撰文を囑し、自己の壽藏碑を堺南宗寺内
本源院
,【墓所】私諡して清譽翁と曰ひ、
本源院
の塋域に葬つた。(高橋白水墓碑銘)
堺市史 第七巻
((五〇)山下蕉雨)
明治十五年六月二十九日享年四十五歳を以て歿し、【墓所】南宗寺内
本源院
の兆域に葬つた。
堺市史 第七巻
((三五)小松忠盈)
【墓所】
本源院
に葬り法號を德功院有學宗隣居士といふ。男米之助其職を襲いだ。(墓誌)
堺市史 第七巻
((一四六)田中玄仙)
文化二年四月二十五日、享年四十六歳を以て歿し、南宗寺内
本源院
の塋域に葬つた。
堺市史 第七巻
((二七)越尾子和)
明治十七年四月十八日享年五十三歳卒去、【墓所】
本源院
に葬つた。長男龜太郞其家を嗣いだ。(墓誌)
堺市史 第七巻
((三八)佐々木龍軒)
明治十五年十月十四日享年七十歳を以て病歿し、【墓所】南宗寺内
本源院
の塋域に葬つた。(墓誌)
堺市史 第七巻
((三四)渡邊正雄)
【墓所】自ら落齒若干を小甕中に納め、遺命して南宗寺
本源院
先考玉山の墓次に斂めしめた。(墓誌)
堺市史 第七巻
((二六)渡邊玉山)
【墓所】南宗寺内
本源院
の墓地に墓碑を營んだ。(渡邊玉山墓誌)
堺市史 第七巻
((二八)渡邊圀雄)
【墓所】寬政五年七月十四日享年三十五歳を以て歿し、
本源院
先代の次に葬つた。(墓誌)
堺市史 第七巻
((一四二)林 端廷)
【墓所】天明四年二月二十二日享年五十九歳を以て歿し、
本源院
の兆域に葬り、知賢と諡した。
堺市史 第七巻
((一)禪樂寺)
一間の水道を隔てゝ鹽穴池と境した幅員一間半の道路に、西は一間の犬走、同三間の水道を隔てゝ南宗寺塔頭の
本源院
,又墓地址は西方南宗寺塔頭
本源院
境にあつて、墓石疊々として倒れ、【中村宗貞父子の墓碑】僅に中村宗貞父子の
堺市史 第七巻
((二二)駒井信義)
(界府鄕學校之記、堺區學事沿革誌)【墓所】文久三年正月十三日歿し、南宗寺内
本源院
の墓地に葬つた。
堺市史 第七巻
((二一八)西 宗齋)
とし、宗玄は三代九郞兵衞で、二代九郞兵衞乃ち海外貿易家として知られたる宗眞(ろゐす)の子に當り、法名を
本源院
堺市史 第七巻
((一)南宗寺)
懸るところの巨鐘はもと
本源院
のものであつた。,【
本源院
】天慶院の西を南へ赴けば塔頭
本源院
となる、桁行九間、梁行六間半の本堂を有し、庭前に歡喜天、毘沙門天,(覊旅漫談)【
本源院
墓地】又
本源院
墓地は同院の南にあつて、織田信長、信忠父子の供養塔を始めとし、橋本桂園
堺市史 第七巻
((二六〇)西 宗眞)
、東西には經逆修、其左右に東漸院宗眞日源居士正保三丙戌曆正月十五日、養光院宗月萬治元戊戌曆十月十日、
本源院
宗玄靈寬文元辛丑年八月三十日,而して
本源院
宗玄は宗眞の嗣子(三代九郞兵衞)、本照院宗信は(四代九郞兵衞)宗玄の嗣子である。
堺市史 第七巻
((二二)本受寺)
塔には法號東漸院宗眞日源居士を始め、父宗源及び母妙喜、宗眞の妻養光院宗月、宗月の父永德及び母妙崇、
本源院
宗玄
堺市史 第七巻
((三九)賴 達堂)
【墓所】南宗寺内
本源院
の墓地に葬る。詩集若干卷を殘してゐる。(達堂賴翁碣(晚晴樓文鈔初編下))
堺市史 第七巻
((三八)渡邊慈齋)
【墓所】嘉永元年五月十八日享年七十七歳を以て病歿し、南宗寺の塔頭
本源院
先塋の次に葬つた。
堺市史 第七巻
((一七〇)高志芝巖)
(全堺詳志序)【墓碑】晚年世務を絶ち、參禪して老を養ひ、享保十一年五月壽塔を南宗寺の塔頭
本源院
の兆域に
堺市史 第七巻
((四九)橋本桂園)
【墓所】遺命により南宗寺内
本源院
に葬つた。
堺市史 第七巻
((三九)眞宗寺)
【沿革】寺傳によれば足利義氏の四男祐氏堺に來り
本源院
道祐と號し、天台僧となつたが、本願寺覺如に歸し、延元二年三月一寺
堺市史 第七巻
((二三六)趙陶齋)
、痛惜措く能はず、藩儒で翁の門人たる十時梅涯を遣はして、後事を處理せしめ、門人等陶齋の墓を、南宗寺内
本源院
堺市史 第七巻
((一)堺周圍の溝渠)
砂利橋 南半町東三丁 間 0 間 100 空地 間 7.0 間 0 0 間 5.0
本源院
裏,南旅籠町東三丁 0 5.0
本源院
境内 7.0 1.0 空地 5.0 南宗寺裏 南旅籠町東三丁
堺市史 第七巻
((一)南宗寺)
享保三年八月本源菴は
本源院
に、海眼菴は天慶院と改稱した。,弘化三年十二月の寺院組合帳に據ると、當時塔頭は天慶院、在中菴、心甫菴、吸江菴、集雲菴、德泉菴、臨光菴、寶光菴、
本源院
,專門道場を建て、(明治三十五年寺院提出書類)牧宗翌三年入寺し、禪堂方丈の改築に着手し、(喜捨簿)又明治初年
本源院
堺市史 第七巻
(目次)
・・・・・・・・一 僧侶 (一)行基・・・・・・・・一 (二)宗然可翁・・・・・・・・三 (三)
本源院
道祐,・・・・・・・・六一九 (三)德泉菴・・・・・・・・六二〇 (四)天慶院・・・・・・・・六二一 (五)
本源院
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