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堺市史 第七巻
((九)禪通寺址)
(九)
禪通寺
址 【所在】
禪通寺
は戎之町東四丁にあつたが、明治三十九年少林寺町東三丁の少林寺へ合併せられた,右東北、西北兩端より各々
禪通寺
東西兩側の延長分南へ立寄つた空地は其東南、西南、兩端の址となる。,猶舊址區域中、西側は德川時代の寺域と相違し往時
禪通寺
西側が水落町の道路であつたのが、現在では舊址西側の / (九)
禪通寺
址
堺市史 第七巻
((一四)廢禪通寺)
(一四)廢
禪通寺
禪通寺
は長松山と號し、【寺址】寺址は戎之町東四丁にあり、【創建開山】臨濟宗大德寺末,(堺
禪通寺
住持職之事、堺鑑中)次いで天正三年庫司火災に罹つたが、翌四年玉仲宗琇僧堂、佛殿、厨庫、山門等,(長松山
禪通寺
年鑑)維新後廢頽甚だしく、本堂、庫裏、納屋、門及び鎭守堂のみを存し、七百七十五坪の境域を / (一四)廢
禪通寺
堺市史 第七巻
((七一)春外宗信)
(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【
禪通寺
八世】又黃梅院の七世、
禪通寺
の八世となり、貞享五年四月六日遷化
堺市史 第七巻
((五五)舊嶽宗容)
(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【
禪通寺
五世】黃梅院及び堺
禪通寺
の第五世となり、正保二年二月十一日世齡六十歳
堺市史 第七巻
((六五)祥巖宗鶴)
(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【
禪通寺
六世】黃梅院及び堺
禪通寺
の第六世となり、同十二年八月朔日世壽七十五歳
堺市史 第七巻
((四六)春嶽宗勝)
(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【
禪通寺
四世】又黃梅院及び堺
禪通寺
の第四世となり、同七年五月十三日世壽四十七歳
堺市史 第七巻
((四三)寶叔宗珍)
【
禪通寺
三世】塔頭天瑞寺の二世、同黃梅院の三世で、堺
禪通寺
の三世となつた。
堺市史 第七巻
((九五)恭山宗良)
宗良字は恭山、堺の人、(寶山住持世記下、龍寶山大德禪寺世譜)法を德禪寺の天嗣宗孚(黃梅院の第九世、堺
禪通寺
,(寶山住持世記下、龍寶山大德禪寺世譜)【
禪通寺
十一世】黃梅の十世、禪通の十一世を繼ぎ、寶曆十二年七月十日世壽六十二歳
堺市史 第七巻
((八一)穆巖宗穆)
(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【
禪通寺
九世】黃梅院の八世、堺
禪通寺
の九世となつた。
堺市史 第七巻
((四〇)春林宗俶)
【
禪通寺
再興】時に堺
禪通寺
席を虛しうしたので、衆の懇請に應じて(春林和大尚行實、龍寶山大德禪寺世譜)再興,(長松山
禪通寺
年鑑、紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)偈に曰ふ「來也咄々、去也咄々、七十七年、咄々咄々」と
堺市史 第七巻
((一〇〇)融谷宗通)
黃梅院の十二世、堺
禪通寺
の十三世に當る。宗勳は法を恭山宗良に嗣いだ。,(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【
禪通寺
十四世】黃梅の十三世、禪通の十四世となり、文化二年四月朔日世壽五十九歳
堺市史 第七巻
((二)宗然可翁)
(東山歷代、扶桑五山記)同年中に西園寺公衡、石塔賴房等檀越として、堺に長松山
禪通寺
を創立し、諸伽監を造營,して、【
禪通寺
第一祖】宗然を請じ其第一世とした。,(
禪通寺
記錄、堺鑑中、和泉名所圖會卷之一)幾程もなく弟子大用宗任に其席を繼がせて都門に歸り、後勅を奉じて
堺市史 第七巻
((五六)玉仲宗琇)
(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【
禪通寺
中興第二世】又堺
禪通寺
の中興第二世を嗣ぎ、(龍寶山大德禪寺世譜
堺市史 第七巻
((一四)小笠原信用)
王子飢に荼毗し、
禪通寺
に葬つた。(茅溟刺吏鑑)
堺市史 第七巻
((三三)良俊寺)
(三三)良俊寺 良俊寺は秀雲山と號し、【位置】戎之町東四丁字
禪通寺
筋にあり、淨土宗堺超善寺末、寺格平僧一等
堺市史 第七巻
((一一)少林寺)
諸寺院明細帳には嘉曆年中に作る)桃源宗悟の開山で、寺號は大檀越小林修理亮法諡梅樹院殿重軍小林大居士(長松山
禪通寺
年鑑,(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【
禪通寺
併合】明治三十九年十二月戎之町東四丁の
禪通寺
を併合した。
堺市史 第七巻
((三二)西福寺)
(三二)西福寺 西福寺は般舟山と號し、【位置】戎之町東四丁字
禪通寺
筋にあり、淨土宗知恩院末に屬し、寺格准能分一等
堺市史 第七巻
((一一一)大綱宗彦)
【
禪通寺
十五世】黃梅の十四世、禪通の十五世である。
堺市史 第七巻
((三四)大心寺)
(三四)大心寺 大心寺は念佛山と號し、【位置】戎之町東四丁字
禪通寺
筋にあり、淨土宗知恩院末、寺格能分八等
堺市史 第七巻
((五)廢地賢寺)
(五)廢地賢寺 【位堆】地賢寺址は戎之町東四丁字
禪通寺
筋にあり、智禪寺と西向寺との間に介在して居つた
堺市史 第七巻
((一一)桃源宗悟)
(長松山
禪通寺
年鑑)
堺市史 第七巻
((四)智禪寺)
(四)智禪寺 智禪寺は圓戒山と號し、【位置】戎之町東四丁字
禪通寺
筋にあり、天台宗眞盛派西教寺末、寺格五等
堺市史 第七巻
((三一)西向寺)
(三一)西向寺 西向寺は般舟山と號し、【位置】戎之町東四丁字
禪通寺
筋にあり、淨土宗知恩院末、寺格平僧一等
堺市史 第七巻
((二八)常安寺)
(二八)常安寺 常安寺は心光山と號し、【位置】熊野町東五丁字
禪通寺
筋にあり、淨土宗知恩院末、寺格能分五等
堺市史 第七巻
((三三)最勝寺)
(三三)最勝寺 最勝寺は深廣山と號し、【位置】熊野町東五丁字
禪通寺
筋にあり、眞宗大谷派本願寺末、寺格准一等別助音地
堺市史 第七巻
((一〇)地賢寺址)
元祿二年堺大繪圖によれば水落町(戎之町東四丁)南側にあつて、東は西向寺、西は智禪寺、南は道路を隔てゝ冣勝寺、北は
禪通寺
堺市史 第七巻
((二九)超善寺)
(二九)超善寺 超善寺は法界山泉勝院と號し、【位置】熊野町東六丁字
禪通寺
筋にあり、淨土宗知恩院末、寺格能分八等
堺市史 第七巻
((八五)津田宗及)
、永福寺條阿、驢庵(半井)(市町)宗榮、(市町)宗順、宗洙(半井)醫師宗玻、錢屋宗仲、長慶寺祐藏主、
禪通寺
祐藏主,、薩摩屋宗忻、長慶寺語藏主、
禪通寺
秀首座、(四條)覺阿、南宗寺團首座、圓璡(竹田)、竹野新五郞入道宗九
堺市史 第七巻
((一)堺周圍の溝渠)
にして道となる 花田口橋 櫛屋町戎之町東五丁 3.0 0 0 4.0 7.0 家 2.0
禪通寺
橋
堺市史続編 第六巻
([せ])
1-12 扇子屋 5-577 千蔵院(熊野町) 2-1106 〓茶 5-571
禅通寺
堺市史 第七巻
(目次)
六三〇 (一二)祥雲寺・・・・・・・・六三二 (一三)廢大通庵・・・・・・・・六三五 (一四)廢
禪通寺
,・・・・・・・・七七六 (七)向泉寺址・・・・・・・・七七七 (八)大通菴址・・・・・・・・七七八 (九)
禪通寺
址
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