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堺市立中央図書館/堺市史

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堺市史 第七巻 ((九五)三二)

(九五)三二 三二は堺甲斐町の薪屋で、(茶湯古事談)紹鷗に茶湯を學び、精勵怠るところがなかつた。,(和泉草三、茶人系傳全集、茶湯古事談)
堺市史 第七巻 ((九八)山上宗二)

茶湯を利休に學び、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕へた。,のともすれは世わたるはしとなるそかなしき」とあるを引いて、師利休は常に此和歌を口吟んだが、利休のみならず、茶湯,これは珠光の一紙目錄に、紹鷗の追加を錄し、之に自己の所見を記したもので、茶湯の起源、名器及び名蹟の形狀,、性質、來歷より、茶湯の心得、茶の手前、所作等に及び、更らに數寄屋の間取には、紹鷗四疊半左勝手及び自己創意,の細長三疊等を記したもので、卽ち自己の茶湯生活三十年間の覺書である。
堺市史 第七巻 ((一〇〇)嚴覺)

(堺數寄者の物語)茶湯を嗜み、汎く雅客に交はつた。(數寄者名匠集津田宗及茶湯日記)
堺市史 第七巻 ((一〇九)南坊宗啓)

宗啓禪旨を究むると共に、【南坊茶湯の祖】茶湯を利休に學んで、其奧義に達し、遂に臺子の法を始めとして、種々,斯くして利休門人中の第一人者として、遂に利休をして、吾が歿後に至り、兒孫にして若し茶湯の師を求めんとするものあらば,走るものあり、殊に利休が其生前に於てすら、丿貫等の同輩より誹謗攻擊を受けたこともあり、(雲萍雜志一)茶湯
堺市史 第七巻 ((九六)譽田屋宗宅)

(九六)譽田屋宗宅 譽田屋宗宅は德齋と號し、堺の人で茶湯を珠光に學んだ。,德隣は茶湯を以て、德川家康に仕へた。
堺市史 第七巻 ((八六)今井宗久)

に住したが、故あつて堺に徙り、(養壽寺今井家系圖)納屋宗次の家に寓居し(數寄者名匠集)【紹鷗の女婿】茶湯,(紹鷗傳來道具譯書寫)始め茶湯を以て足利義昭に仕へ、法印に敍せられ、大藏卿と稱した。,(桃青寺過去帳、今井宗久茶湯日記)墓碑は其菩提所たる堺向泉寺に建てられ、又(桃青寺過去帳、今井家先祖書,又茶湯の師紹鷗の二十五囘忌、天正七年六月二十九日には鹽穴常樂寺内に五層の塔を建てゝ冥福を祈つた。,(今井宗久茶湯書) 第三十圖版 今井宗久塔(高野山奧ノ院墓所) 第三十圖版 今井宗久塔(高野山奧
堺市史 第七巻 ((九四)空海)

(南坊錄)壯年の時、【茶道を能阿彌に學ぶ】茶湯を能阿彌に受け、後俗塵を厭ひ、剃髮して堺に居住し、空海と,【交友】荒木道陳と親交があり、衣食の資を得、能阿彌から傳へられた茶湯を悉く道陳に傳へた。
堺市史 第七巻 ((二二二)里見東白)

【篆刻を能くす】東白茶湯を嗜み、篆刻に長じた。,其墓碑を茶臼函に象どつてゐるのは平常茶湯を好んだからである。
堺市史 第七巻 ((八四)千利休)

(茶人系傳全集)利休年甫めて十七、【茶道の師】茶湯を北向道陳に學び、後更らに、武野紹鷗に隨ふて其奧技に,(續日本高僧傳卷第十一)元龜元年信長堺に來り利休を見、始めて茶湯を以て勤仕した。,(宗易北野茶湯の文)斯くして、當日の大茶湯に總監督として遺漏なきを得た。,(武德編年集成卷四一、豐鑑卷四)怙淡を以て茶湯の生命とした、茶人ノ貫の如きは之を評して、利休も其盛を知,(和泉名所圖會卷之一)【舊邸】今市町(現宿院町西一丁)の利休の舊宅址に椿井があり、利休は茶湯に常用したと
堺市史 第七巻 ((一七)仙石政寅)

【茶湯の達人】茶湯を嗜んで仙樹庵德玄と號した。
堺市史 第七巻 ((二六一)松江宗安)

父は茶湯を以て聞え、法號を木庵宗訥居士といひ、(諸書多く宗訥を謬つて宗納に作る)天正十八年正月歿した。,宗安茶湯に通じ(茶人系傳全集)長崎から明人を聘し、堺で紗地の金襴を織らしめた。
堺市史 第七巻 ((八〇)北向道陳)

茶湯を好み、法を空海に受けて其技に長じ、(茶人系傳全集)後之を千利休に傳へ、【茶道の宗匠】武野紹鷗の歿後宗匠,(茶湯古事談)【名醫圓璡の外舅】道陳は亦名醫藥師院圓璡の外舅に當つてゐる。
堺市史 第七巻 ((五二)策傳)

策傳 【金森宗和に學ぶ】策傳字は日快、京都禪林寺の智空甫叔に師事して内典を修め、(淨土傳燈總系譜)茶湯,【安樂菴帛】茶湯の名器を藏し、又自ら帛を作り、世に安樂菴帛と稱せられてゐる。
堺市史 第七巻 ((八)今井兼隆)

【茶湯の達人】【和泉河内の代官】將軍德川秀忠及び家光に仕へ、茶湯を善くし、父の勳功によつて同じく河、泉兩國
堺市史 第七巻 ((九九)油屋道琳)

(九九)油屋道琳 油屋道琳は堺の人、【利休門下】茶湯を利休に學び、(數寄者名匠集)天正頃の茶人として
堺市史 第七巻 ((一〇八)山本助五郞)

茶湯を武野紹鷗に學んだ。(茶人系傳全集)【二疊半小座敷】始めて二疊半の小座敷を造つたと云はれてゐる。
堺市史 第七巻 ((九二)津田宗伯)

【珠光門】茶湯を珠光に學び、(茶事談、茶人系傳全集)亦牡丹花肖柏より古今傳授を受けた。(明翰抄)
堺市史 第七巻 ((八五)津田宗及)

茶湯を父に學び、今井宗久等と其名を同じうした。亦武技、蹴鞠の道にも達した。,此雪中の作意、雪を水に換へたことは、【宗及一世の出來茶の湯】宗及一世の出來茶湯と、利休は每に之を賞讚した,三齋が利休に、此茶湯少しも瑕はないかと問ふたら、利休は難をいはゞ、香に月を焚くことは、月と雪との緣少しく,(津田宗及茶湯日記)
堺市史 第七巻 ((八九)武野宗瓦)

(武野家系圖)【茶湯を父に學ぶ】茶湯を父に學んで之を能くし、常に紅緣の服を著、又紅帛紗を用ひた。
堺市史 第七巻 ((二二五)伊丹屋宗不)

(文化十年手鑑)【小堀政一の門人】【茶室】茶湯を小堀政一に受け(茶人系傳全集)澤庵、新屋四郞左衞門(宗不書狀,(茶人系傳全集)父子二代相續いて茶湯を以て、其名遠近に聞こえた。
堺市史 第七巻 ((一二六)天王寺屋東室)

(一二六)天王寺屋東室 天王寺屋東室は堺の茶人で、【利休門下】茶湯を利休に學んだ。
堺市史 第七巻 ((一〇五)鹽屋宗悅)

(一〇五)鹽屋宗悅 鹽屋宗悅は茶湯に通じ、【所藏の名器】多くの茶器を所藏した。
堺市史 第七巻 ((一二四)滿田宗俊)

(堺數寄者の物語、數寄者名匠集、津田宗及茶湯日記)【名品】御物名物記に、家に飯銅の小壼あり、我邦に其數三個
堺市史 第七巻 ((七)今井宗薰)

(今井氏七石碑銘幷系圖)【茶湯の達人】茶湯を父に學んで奧儀を極め、豐臣秀吉に仕へて近侍となつた。,(紹鷗傳來道具譯書留寫今井彦右衞門家之覺書)織田長益其茶湯に通ずるの故を以て愁訴して釋され、【高野山遁竄
堺市史 第七巻 ((一〇七)茜屋宗佐)

【紹鷗門下】茶湯を武野紹鷗に學んだ。
堺市史 第七巻 ((二二六)高橋玄丹)

【茶道を以て織田有樂齋に仕ふ】茶湯に堪能の故を以て、織田長益に召出され、京都では祇園玄丹と稱せられた。
堺市史 第七巻 ((九一)竹倉屋紹滴)

(茶家系譜詳本)堺に住し、【珠光門】珠光に學んで茶湯を能くし、當時引拙、宗理と名を齊しうした。
堺市史 第七巻 ((一〇一)石橋良叱)

茶湯を利休に學んだ。良叱の子に道古あり、道古の子長左衞門に至つて、居を宿院に徙した。
堺市史 第七巻 ((一二八)伊丹屋紹無)

(數寄者名匠集)茶湯を利休に學んだ。(茶事談、數寄者名匠集)家富み、多くの名器を所藏してゐた。
堺市史 第七巻 ((九三)篠 道甘)

香道をよくし、又珠光に茶湯を習ひ、眞の臺子の法を受けた。
堺市史 第七巻 ((九七)辻 玄哉)

(數寄者名匠集)【利休に臺子の法を傅ふ】豐臣秀吉始めて千利休に臺子の茶湯すべきよしを命じた際に、利休は
堺市史 第七巻 ((二〇八)古家梅山)

(沙界人名錄)【人と爲り】人と爲り閑雅詩書及び俳歌を善くし、最も茶湯を嗜んだ。
堺市史 第七巻 ((四)北向道陳屋敷址)

(茶湯古事談)【舊址】舳松は元來堺の舊い町名で元祿二年の堺大繪圖によれば今の中、寺地兩町東一丁字山口筋
堺市史 第七巻 ((八七)山岡宗無)

【劒を上泉秀綱に學ぶ】劒を上泉秀綱に學び、(麻野家系圖)茶湯を千利休に受け、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕,(茶湯古事談)文祿四年七月十五日歿した。(淨得寺過去帳)末裔淺野信吉氏は大阪市に現住してゐる。
堺市史 第七巻 ((八八)千 道安)

【茶道を父に受く】茶湯を父に受けて妙手と稱せられた。,千吉兵衞書狀 第三十一圖版 千吉兵衞書狀      【機才】道安性敏捷にして機才あり、曾て父を茶湯
堺市史 第七巻 ((二二四)岸 紹易)

【茶道を島村紹億に學ぶ】亦茶湯を嗜み、明和四年四十餘歳致仕して(事實文編四十三茶翁紹易居士墓表)嗣子一九郞,(茶人大系圖、茶家好古集覽、茶人系傳全集)【問秦庵襲稱】是より先き堺の醫人竹田楚竹も亦茶湯を極め、嘗て
堺市史 第七巻 ((一一八)茜屋吉松)

茶湯に精しく、堺神明町六間筋に住した。
堺市史 第七巻 ((二)織田長益)

(寬政重修諸家譜卷第四百九十二、野史卷六十七)  【茶湯を利休に學ぶ】長益始め茶湯を千利休に學び、傍
堺市史 第七巻 ((一五三)宮尾道三)

又千利休に從ひ、茶湯にも通じた。
堺市史 第七巻 ((七九)武野紹鷗)

紹鷗は茶湯を此二居士に學び、(茶人系傳全集、堺鑑下)傍ら紫野の古嶽和尚に參禪した。,(泉州龍山二師遺藁)一日實隆の和歌大槪序の講説を聞いて深く感ずるところあり、【茶湯に親しむ】遂に專ら茶湯,織田信長丹羽長秀を使者として、一覽するよしの命を傳へしめ、後之を返還したが、北野大茶湯に、利休此ことを
堺市史 第七巻 ((一六二)具足屋祐專)

(高木家譜略)【茶道に通ず】茶湯を江岑宗佐に學んで、奧技に達した。
堺市史 第七巻 ((一一五)谷善右衞門)

【茶道に達す】又茶湯を堺の茶人隱岐宗沕の上足、橘屋道退に學び、後原叟宗佐の高弟、吟松庵田澤宗柳に習つた,命によつて紅葉間の床に松竹梅の立花を奉り、又新居移轉祝賀の爲に參賀の賓客を接待して、紅葉間簀子に於て茶湯,其後貞建親王及び邦永親王姫宮の婚儀の節にも、立花の用命を蒙り、又前例の如く茶湯所の用を勤めた。
堺市史 第七巻 ((三一八)休翁)

(三一八)休翁 【堺の人】【柳澤淇園に交る】休翁は堺の富商の出で柳澤淇園と交はり、茶湯に達し、殊に料理
堺市史 第七巻 ((一二一)重宗甫)

(茶事談、茶人系傳全集)利休の門人で、(數寄者名匠集)茶湯を以て豐臣秀吉に仕へた。
堺市史 第七巻 ((五一)古溪宗陳)

(續日本高僧傳卷第十一)古溪亦茶湯を好み、永祿十一年二月並びに同十二年十一月の津田宗及の茶會に列し、又元龜二年三月,(今井宗久茶湯日記)文祿五年八月重患に罹り、殆ど危篤に陷るに及び、弟子其遺偈を需むるや乃ち書して曰ふ、
堺市史 第七巻 ((一一)宅 德兵衞)

【餘技】又圍碁を嗜み、茶湯を愛して煎茶並に抹茶の法に通じ書畫を樂んで亦自ら之を描いた。
堺市史 第七巻 ((一二二)萬代屋宗安)

(慶長見聞集)【男與四郞】其子與四郞は卽ち利休の外孫で、茶湯を以て有馬侯に仕へた。
堺市史 第七巻 ((八三)松江宗訥)

【錢屋】錢屋と號し、富豪を以て聞こえ、(數寄者名匠集)【紹鷗門】茶湯を武野紹鷗に學んだ。
堺市史 第七巻 ((六七)實堂宗傳)

(龍寶山大德禪寺世譜)宗傳亦茶湯に通じ、堺在住中屢々茗莚を開いてゐる。(實堂和尚消息)
堺市史 第七巻 ((二一九)松江宗德)

(二一九)松江宗德 【千宗旦に學ぶ】松江宗德は宗訥の子で、(茶事集覽)茶湯を千宗旦に學び、自在庵一釜齋
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