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堺市立中央図書館/堺市史

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堺市史 第七巻 ((五一)北十萬)

(末寺御改帳)豐臣秀吉は踞尾村にて、【朱印寺領】寺領五十石の朱印を寄せ、德川幕府に至つて永く渝らず、(,社寺明細帳)【什寶】什寶に上述の後水尾天皇北十萬勅額一幅、傳惠心僧都筆來迎佛一幅、開山衆德上人木像一軀、豐臣秀吉寺領朱印狀等
堺市史 第七巻 ((一二〇)薩摩屋宗仁)

御物名物記によると、紹鷗の霰釜は、織田信長から宗仁に與へたのを、其後豐臣秀吉に獻じたものである。
堺市史 第七巻 ((九七)辻 玄哉)

(數寄者名匠集)【利休に臺子の法を傅ふ】豐臣秀吉始めて千利休に臺子の茶湯すべきよしを命じた際に、利休は
堺市史 第七巻 ((四五)日栖)

其用材は豐臣秀吉の贈つたもので、朝鮮木であると傳へられてゐる。天正十一年四月五日遷化した。
堺市史 第七巻 ((一一)三好存保)

(三好家成立記)後豐臣秀吉に仕ヘ、(三好別記)十四年十二月十二日豐後國年滿に於て戰死した。
堺市史 第七巻 ((一六二)具足屋祐專)

元季は織田信長及び豐臣秀吉に仕へ、老年致仕して、堺に移つた。
堺市史 第七巻 ((一二一)重宗甫)

(茶事談、茶人系傳全集)利休の門人で、(數寄者名匠集)茶湯を以て豐臣秀吉に仕へた。
堺市史 第七巻 ((五一)古溪宗陳)

(寶山住持世記上、龍寶山大德禪寺世譜)道譽一世に高く、【秀吉の崇信】頗る豐臣秀吉の崇信する所となり、同十年秀吉總見院,(秀吉將軍記卷中)同十九年正月豐臣秀長の卒するや、【豐臣秀吉法要導師】秀吉の懇請により法要の導師となり
堺市史 第七巻 ((八三)松江宗訥)

京都千本の道提から出で、足利義政に移り、後更らに奈良の蜂屋淨佐の手に移り、轉じて宗訥之を所持したが、終に豐臣秀吉
堺市史 第七巻 ((二八九)西村宗全)

【弟宗次郞】弟宗次郞(一に宗四郞に作る)も亦土風爐の製作に長じ、豐臣秀吉より天下一の稱號を許されたが、
堺市史 第七巻 ((一五八)曾呂利新左衞門)

(茶人系傳全集)【秀吉の寵遇】人と爲り慧敏で機才に富み、和歌を能くし、豐臣秀吉に寵遇せられた。
堺市史 第七巻 ((二六)極樂寺)

(堺鑑中、泉州志卷之一)【朱印寺領】豐臣秀吉寺領二十石の朱印を寄せ、德川幕府亦之に傚ひ、(朱印狀、代々手鑑
堺市史 第七巻 ((六一)日通)

天正十八年豐臣秀吉の聚樂第を營むに方り、一條堀川に在つた同寺を今の地に移轉の際、本阿彌光二は其工事を監督
堺市史 第七巻 ((二〇)櫛笥寺)

(略緣起)是より先き、天正十四年七月豐臣秀吉築尾村に於て、【朱印寺領】寺領一石一斗の朱印を寄せ、德川幕府亦舊
堺市史 第七巻 ((二三)成就寺)

明國皇子筆紺紙金泥無量品一册、尊鎭法親王筆消息一幅、九條關白忠良筆日蓮大菩薩號一幅、宗祖日蓮筆十界曼荼羅一幅、豐臣秀吉消息一幅
堺市史 第七巻 ((九)顯本寺)

(顯本寺調査書)【朱印寺領】これより先き、豐臣秀吉は寺領二十七石の朱印を寄せ、德川幕府に至つても舊に倣,社寺明細帳)【什寶】什寶には刑部少輔、以下の各禁制狀、安宅冬康書狀、織田信長朱印狀、蓮如消息二幅、傳豐臣秀吉所用茶辨當一揃等
堺市史 第七巻 ((五六)玉仲宗琇)

【秀吉の信任】豐臣秀吉玉仲を信ずること厚く、總見、天瑞の二刹を創設し、玉仲を開祖とした。
堺市史 第七巻 ((八九)武野宗瓦)

同十六年豐臣秀吉の命に違ひ、伊勢の朝熊寺に居ること年餘、猶ほ秀吉に追はれ、駿府に到り德川家康に憑つた。
堺市史 第七巻 ((一一)聾井址)

(一一)聾井址 豐臣秀吉の茶湯に使用せられ、井守聾者の故に其名を生じたとの傳説を有つた(堺鑑)聾井は
堺市史 第七巻 ((七二)半井瑞策)

(半井家系圖)【信長、秀吉の信任】織田信長瑞策を愛し、豐臣秀吉も亦頗る信任した。
堺市史 第七巻 ((九八)山上宗二)

茶湯を利休に學び、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕へた。
堺市史 第七巻 ((一四〇)小西如清)

天正中豐臣秀吉播磨にあつて毛利氏と對陣に際し、直家の向背は戰局に影響するところ少なからざるを以て、秀吉
堺市史 第七巻 ((一六四)久 吉左衞門)

【征韓役の嚮導】豐臣秀吉の征韓に方り、其船隊堺に於て艤裝を終り、出發に際し吉左衞門、肥前まで海路の案内
堺市史 第七巻 ((八)廢向泉寺)

然し古來當寺の奉仕した方違、東原、天王の三社は、尚依然として舊址にあつた(向泉寺緣起)【寺領朱印】豐臣秀吉
堺市史 第七巻 ((二四)經王寺)

(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【朱印寺領】寺領としては豐臣秀吉踞尾村に二十六石の朱印を寄せ、德川幕府亦之
堺市史 第七巻 ((三)廢金光寺)

【朱印寺領】當寺は豐臣秀吉の時に寺領十九石を寄せられ、(堺鑑中)德川氏を經て(代々手鑑)明治維新後上地
堺市史 第七巻 ((八七)山岡宗無)

【劒を上泉秀綱に學ぶ】劒を上泉秀綱に學び、(麻野家系圖)茶湯を千利休に受け、【秀吉に仕ふ】豐臣秀吉に仕
堺市史 第七巻 ((八八)千 道安)

春屋宗園に參禪し(茶人系傳全集)豐臣秀吉に仕へた。
堺市史 第七巻 ((一)廢引接寺)

(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【朱印寺領】豐臣秀吉は寺領十石三斗を寄せ、德川幕府亦之に倣ひ、(代々手鑑
堺市史 第七巻 ((二)織田長益)

後豐臣秀吉に仕へ、十三年七月從四位下に敍し、侍從に任ぜられた。
堺市史 第七巻 ((三)山名豐國)

【因幡の守護】天正六年五月豐臣秀吉大軍を率ゐて因幡に入り、鳥取城を圍んだ。
堺市史 第七巻 ((五九)應其)

木食草衣】木食草衣して精進苦行するもの十三年、(高野山總分方風土記七、通念集四、無言抄奧書)同十三年豐臣秀吉大擧
堺市史 第七巻 ((一四三)納屋助左衞門)

絲亂記)助左衞門文祿二年小琉球卽ち呂宋へ渡航し、翌年七月歸朝し、當時堺の代官であつた、石田杢助を介して、豐臣秀吉
堺市史 第七巻 ((七)海會寺)

これより先き、【朱印寺領】豐臣秀吉は寺領三十石の朱印狀を寄せ、(海會寺記錄)德川幕府亦之に倣つたが、明治四年正月上地
堺市史 第七巻 ((一)大阿彌陀經寺)

第十七世岌安當住の際、天正十四年七月豐臣秀吉築尾村にて、【朱印寺領】寺領四十石の朱印を寄せた。,【秀吉の入浴】天正年中豐臣秀吉有馬入湯の後、こゝに浴して痼疾を治し、(鹽風呂由緖書、旭蓮社緣起堺鑑中)
堺市史 第七巻 ((一五二)高三隆達)

【秀吉に召さる】豐臣秀吉大阪在城の際、堺津に命じて一藝に秀でたるものを召したが、隆達も書道を以て撰に預
堺市史 第七巻 ((一)光明院)

當時は斯くの如く歷朝の崇信篤く、公武の歸依を聚め、【朱印寺領】豐臣秀吉は築尾村に於て寺領十六石の朱印を
堺市史 第七巻 ((一一)少林寺)

(堺鑑中、泉州志卷之一)豐臣秀吉は石田三成(泉州志には石田隱岐守)小西行長をして、境内竹木の伐採を禁止
堺市史 第七巻 ((一四)廢禪通寺)

(玉仲遺文)永祿十二年三月二日附彈正忠等の禁制狀を傳へ、【朱印寺領】又天正十四年七月豐臣秀吉は朱印狀を
堺市史 第七巻 ((八六)今井宗久)

(茶人系傳全集、全堺詳志卷之下)後、豐臣秀吉に仕へ、同十三年北野の茶會には宗久所藏の茶器は第四位を占めた
堺市史 第七巻 ((七)今井宗薰)

(今井氏七石碑銘幷系圖)【茶湯の達人】茶湯を父に學んで奧儀を極め、豐臣秀吉に仕へて近侍となつた。
堺市史 第七巻 ((一二)小西行長)

(一二)小西行長 小西行長は彌九郞と稱し、如清の子として豐臣秀吉に親任せられた。
堺市史 第七巻 ((三)祥雲寺)

松は臥龍松と稱し、豐臣秀吉の愛玩を受けたものゝ後身で、谷正印當寺建立の際こゝに移したといはれてゐる。
堺市史 第七巻 ((一五)竹田藥師院○昌慶以下歷代)

【圓璡定信】圓璡定信は豐臣秀吉の病を治して法眼に敍し、堺に於て食祿千石を給せられ、文祿三年十二月法印に
堺市史 第七巻 ((八五)津田宗及)

(泉州龍山二師遺藁)豐臣秀吉に仕へて三千石を領し、法眼和尚位に敍せられた。
堺市史 第七巻 ((一)妙國寺)

同十三年三月下旬豐後の大友宗麟、豐臣秀吉に謁せんが爲めに來り、當津に着船し宿泊した。,、傳伏見天皇御製和歌一幅、冷泉爲家筆細字三十六歌仙和歌一幅、三好義良書狀一幅、三好永椿和歌色紙一幅、豐臣秀吉朝鮮渡海朱印狀一幅
堺市史 第七巻 ((五三)江月宗玩)

南宗寺に入り、十三歳牡丹に題するの詩を賦し、其末句「十三紅是我同年」を見て、春屋の歎賞するところとなり、豐臣秀吉
堺市史 第七巻 ((八四)千利休)

(鹽尻卷六十一、類聚名物考卷四十六)【秀吉の寵遇】後豐臣秀吉に仕へて寵遇を受け、長岡友齋、蒲生氏鄕來堺
堺市史 第七巻 ((五二)日珖)

(佛心歷代師承傳)同十三年七月豐臣秀吉の命により、赦されて安土の誓文を破られ、大阪に至つて秀吉に謁し、
堺市史 第七巻 ((二)菅原神社)

(神輿御幸諸事留帳、輿神渡御願書留)  【領地】神領は豐臣秀吉天正十四年七月二百二十石の朱印を寄せ、,伏見宮二品兵部卿貞建親王筆、土佐光芳畫天滿宮並に常樂寺緣起一卷、後西天皇皇女寶鏡寺宮德嚴理豐筆菅家御傳記一卷、豐臣秀吉朱印狀一通
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