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堺市立中央図書館/堺市史

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堺市史 第七巻 ((五九)應其)

其先は近江國佐々木氏より出づと云ひ(高野山總分方風土記七)或は藤原氏の出とも云はれてゐる。,(通念集四)幼少既に出塵して高野山に登り、天正元年十一月千手院谷の瀧城院に寄宿し、文殊院勢譽に就いて薙髮受戒,(高野山總分方風土記七)爾來鹽穀を絶ち、【木食草衣】木食草衣して精進苦行するもの十三年、(高野山總分方風土記七,次いで大塔再營の工を督し、慶長五年に至つて近江の飯導寺に隱退し、(高野山總分方風土記七)慶長十三年十月朔日示寂,(高野山文書)  【高野堂の建立】應其の建立するところ高野山諸堂の外、諸國中八十餘所に達し、【堺高野堂修築
堺市史 第七巻 ((六八)一音顯澄)

(一説に和泉ともいふ)【剃度】【堺寓居】十一歳、高野山釋迦文院の宥成阿闍梨に就いて剃髮し、廣澤華嚴院に,是より諸方に聘せられて密法を修し、或は經書の補校に力を用ひ、仁和寺及び高野山の文庫に入つては、數千卷の
堺市史 第七巻 ((八六)今井宗久)

桃青寺過去帳、今井宗久茶湯日記)墓碑は其菩提所たる堺向泉寺に建てられ、又(桃青寺過去帳、今井家先祖書)高野山,(今井宗久茶湯書) 第三十圖版 今井宗久塔(高野山奧ノ院墓所) 第三十圖版 今井宗久塔(高野山奧
堺市史 第七巻 ((七)今井宗薰)

せられんとしたが、(寬政重修諸家譜卷第二百二十四)宗薰及び其子彦八郞(後宗呑)は家康に從はざる旨の誓詞を出し、高野山,(紹鷗傳來道具譯書留寫今井彦右衞門家之覺書)織田長益其茶湯に通ずるの故を以て愁訴して釋され、【高野山遁竄,】高野山に逃れ、一心院谷福生院に寓して時機を窺ふた。
堺市史 第七巻 ((一三〇)相泉)

後高野山麓に歿した。
堺市史 第七巻 ((六)今井宗呑)

(祥雲寺略記)【大阪城拘禁】大阪冬陣に父と共に大阪城中に拘へられ、織田長益の請ひによつて放たれ、遂に高野山
堺市史 第七巻 ((一六)松井友閑)

(堺鑑下、全堺詳志卷之下)又信長高野山に派兵の際には、部將となつて活躍した。
堺市史 第七巻 ((三)發光院)

【沿革】元和八年風海の開創に係り、當時は高野山一心院谷延命院の末寺であつたが、元祿十年四月大覺寺末となつた
堺市史 第七巻 ((一〇)千藏院)

然し寶永七年故あつて之を高野山蓮華三昧院に遷座し、延享五年に至り復當寺に歸還した。
堺市史 第七巻 ((四)乾 楯雄)

時偶々王政復古に際し、侍從鷲尾隆聚紀州高野山に駐屯するに當り楯雄起つて之に從ひ、【德川氏の殘兵を擊破す
堺市史 第七巻 ((五)良尊)

幼にして父母を喪ひ、又妻子をも喪ふに及び出離の念を抱き、家を其弟刑部丞正次に讓り、二十五歳の秋高野山に
堺市史 第七巻 ((二九)圓二坊賢知)

義就玆に於て四月竊に城を脱して高野山に入つたが、(慈光寺由緖書、新撰長祿寬正記)正吉は屈せずして、出でなかつた
堺市史 第七巻 ((一)小河一敏)

【高野山僧徒の騒擾を鎭む】又明治二年高野山堺縣の管轄の際、一山の僧徒等廢寺の沙汰を慮り、頗る疑懼したが
堺市史 第七巻 ((五五)河盛仁平)

明治初年屢々褒賞を受け、(河盛榮次郞氏報告)又神佛崇信の念厚く、且社寺に寄進するもの多く、【野山二堂の再建】紀州高野山金剛峯寺
堺市史 第七巻 ((九〇)湛慧信培)

【大寺明王院に倶舍論及び唯識論を構ず】十六年高野山學侶の請に應じ堺大寺明王院に在つて倶舍論を講じ、因て
堺市史 第七巻 (插入圖版目次)

第二十九圖版 津田宗及書狀 (京都市龍光院所藏)・・・・・・・・一二四 第三十圖版 今井宗及塔 (和歌山縣高野山奧院墓地
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