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堺市史 第七巻
((一二)祥雲寺)
(一二)
祥雲寺
祥雲寺
は號を龍谷山、俗稱松の寺、【位置】大町東三丁字一丁寺町にある大德寺の子院で、寺格一等地,(宿松山海會禪寺略記、本末雜亂改正記、
祥雲寺
略記)正安卽ち直に建築の工を起し、【寛永の落慶】同五年に至,(
祥雲寺
略記)寬永九年瑞泉寺を祥雲菴と改め同十六年更に
祥雲寺
と稱した。,(澤庵書狀、
祥雲寺
住持職次第、
祥雲寺
略記)【澤庵歿後の住職】斯して澤庵寂後住職を缺くこと十三年、後天祐紹杲,(
祥雲寺
住持職次第、
祥雲寺
略記)維新後に至り一代住職制となつた。 / (一二)
祥雲寺
堺市史 第七巻
((三)祥雲寺)
(三)
祥雲寺
祥雲寺
は臨濟宗大德寺派で一名松の寺と稱し、【所在】大町東二丁字寺町にある。,第百十四圖版
祥雲寺
見取圖 第百十四圖版
祥雲寺
見取圖 第百十五圖版
祥雲寺
方丈前庭,第百十五圖版
祥雲寺
方丈前庭 第百十六圖版 五葉松舊觀(堺大觀) 第百十六圖版 / (三)
祥雲寺
堺市史 第七巻
((一六三)谷 正安)
(東海和尚紀年錄)【
祥雲寺
創剏】卽ち
祥雲寺
である。,(
祥雲寺
略記)正保元年二月六日享年五十六歳を以て歿し、
祥雲寺
に葬つた。,(家谷系圖、
祥雲寺
略記)【遺書に
祥雲寺
の所置を詳述す】正安生前寬永十八年四月遺書を認めて、寺僧に送り、,と古田織部正重勝とに謀り、遂に之を半截して二幅とし、此時織部正の注意によりて裱裝を改め、(
祥雲寺
略記),(
祥雲寺
略記、
祥雲寺
讓狀) 第五十八圖版 谷宗印畫像 第五十八圖版 谷宗印畫像
堺市史 第七巻
((六)今井宗呑)
(
祥雲寺
略記)宗薰の長男で、(今井氏七石碑銘幷系圖)道號を不盡と云ふ。,(
祥雲寺
略記)【大阪城拘禁】大阪冬陣に父と共に大阪城中に拘へられ、織田長益の請ひによつて放たれ、遂に高野山,(
祥雲寺
略記)元和九年四月十三日歿し、法諱を不盡宗呑居士と云ふ。
堺市史 第七巻
((六六)傳外宗左)
寬文四年九月東海寺の輪番職となり、(紫巖譜略、龍寶山大德禪寺世譜)【南宗寺二十一世】【
祥雲寺
三世】又南宗寺,の第二十一世、(南宗寺歷世年譜)堺
祥雲寺
第三世を嗣いだ。,(
祥雲寺
略記)【禪師號勅賜】延寶三年三月靈元天皇は特に大通智勝禪師の號を賜はつた。
堺市史 第七巻
((七三)傳心宗的)
(龍寶山大德禪寺世譜)【
祥雲寺
住職】【禪師號勅賜】延寶二年九月萬松山東海寺の輪番職となり、(紫巖譜略),元祿二年
祥雲寺
に入り、(
祥雲寺
略記)同七年二月東山天皇より、特に佛智無碍禪師の號を忝うした。
堺市史 第七巻
((一六六)谷 安殷)
(谷家系圖)【墓所】【長伯の輓歌】火化して遺骨を堺
祥雲寺
に葬り、(
祥雲寺
略記)同好士追悼の詩歌を贈るものが,) 【子孫】かゝる名家も後終に斷絶し、末孫善次郞(法名眞源紹性)寬政年中病死し、嗣子無きを以て、
祥雲寺
,の住僧等家名相續を圖つて成らず、祖先傳來の鎗、長刀其他重要書類は之を
祥雲寺
に預り、家財は善次郞の妻(法號圓應妙機,)の生家油屋德次郞方へ引取つて、妙機の養老の資とし、妙機の歿後は、兩靈の祠堂料として
祥雲寺
に寄進し、且石牌二基,(
祥雲寺
略記)
堺市史 第七巻
((一八八)武野安齋)
(
祥雲寺
略記)【撰述の書】澤庵大和尚行狀を撰述し、東海和尚紀年錄、泉州龍山二師遺藁を編み、慶安四年十二月私資,を投じて、澤庵の爲に
祥雲寺
に寂然塔を建てた。
堺市史 第七巻
((九)廢禪樂寺)
九)廢禪樂寺 禪樂寺は不盡山と號し、【寺址】寺址は南旅籠町東三丁字内農人町にあり、臨濟宗大德寺派堺
祥雲寺
末,(武野紹鷗位牌、
祥雲寺
略記)紹鷗は當時堺寺院の境域狹く、埋葬の餘地なきを憂ひ、地所を購ふて、之を各寺の,(
祥雲寺
略記)天和三年中村宗久、不盡菴の廢地を求めて諸堂を再興し、五月竣成した。
堺市史 第七巻
((七四)天倫宗忽)
是歳十二月
祥雲寺
に開山澤庵和尚の三十三囘忌法要を修するに方り、外護者幷に耆舊等の請によつて、導師となつた,又
祥雲寺
の檀越等同寺に久しく住持を缺いたので、來住を希ふたが、固辭して應せず、大仙院の尊宿等、之を要して,【
祥雲寺
住職】六年四月
祥雲寺
に居り、八月德泉菴に移り、大德寺の塔頭聚光、高桐兩院の住職を兼ねた。,三月不盡菴に居り、七月
祥雲寺
に到つた。
堺市史 第七巻
((六三)天祐紹杲)
(澤庵和尚木像胎内朱書銘)後更らに
祥雲寺
第二世の住職となつた。,(
祥雲寺
略記)【禪師號勅賜】明曆二年四月後西天皇は特に佛海祖燈禪師の號を賜はつた。
堺市史 第七巻
((一九七)清水利政)
【墓所】寬保三年二月十五日行年四十九歳を以て歿し、遺骨を
祥雲寺
に葬つた。法號を化岳利政といふ。
堺市史 第七巻
((五四)澤庵宗彭)
【
祥雲寺
開山】寬永二年九月十日に彌々替地の請取證書をとり、(海會禪寺由緖略記、
祥雲寺
略記)海會寺址には,(澤庵和尚像畫贊)同畫像は現に
祥雲寺
の所藏にかゝり、國寶に編入せられて居る。,裱裝使用の布帛は、世に之を
祥雲寺
切れと云つてゐる。,(澤庵大和尚行狀)【
祥雲寺
寂然塔】又門弟の
祥雲寺
に在る者は、塔を建てゝ遺像を安置し、扁して寂然と稱した,(東海和尚紀年錄)
祥雲寺
にある澤庵の壽像は、寬永十四年夏大佛師本江左京康音の作である。
堺市史 第七巻
(插入圖版目次)
六九 第十四圖版 大林木像 (堺市南宗寺所藏)・・・・・・・・七一 第十五圖版 古嶽偈文 (堺市
祥雲寺
所藏,江月書狀 (堺市南宗寺所藏)・・・・・・・・二一六 第四十八圖版 皇朝類苑[○卷首、 卷末] (堺市
祥雲寺
所藏,專修寺阿彌陀如來像 (大阪市專修寺所藏)・・・・・・・・五九三 第九十四圖版 南宗菴改稱偈文 (堺市
祥雲寺
所藏,南宗寺地割圖 (堺市南宗寺所藏)・・・・・・・・六〇六―六〇七 第九十六圖版 海會寺屋敷賣劵 (堺市
祥雲寺
所藏,・・・・・・・・七五五 第百十五圖版
祥雲寺
方丈前庭・・・・・・・・七五六 第百十六圖版
祥雲寺
舊五葉松
堺市史 第七巻
((八)今井兼隆)
今井氏七石碑銘幷系圖)(寬政重修諸家譜には、平左衞門兼隆を以て宗呑とし、歿年を寬永十年三月八日に、法名を紹仙に作るも、
祥雲寺
略記並
堺市史 第七巻
((三五)屋崎正明)
(宿老乙名名前帳)晚年落魄して
祥雲寺
内の一支坊に寓居し、(武井彦四郞氏談話)明治十一年十一月十二日享年七十歳
堺市史 第七巻
((二六四)中村宗治)
【弟宗久】【禪樂寺の再興】弟宗久は通稱を海部屋平右衞門といひ、(
祥雲寺
略記)亦兄に倣ふて、天倫退休所として
堺市史 第七巻
((七四)谷宗臨)
(
祥雲寺
略記)宗臨の子に長左衞門時安(放牛齋立翁宗卓居士と號し、今井宗久の女を娶つた。
堺市史 第七巻
((七)海會寺)
(全堺詳志卷之下)今の大町東三丁
祥雲寺
所在の邊に轉じたのは、蓋し此時であらう。
堺市史 第七巻
((八六)今井宗久)
(
祥雲寺
略記)宗久天正十年六月信長薨去に際し、十三級の石塔婆を建て、中に佛舍利を安置して、一代の武德を
堺市史続編 第六巻
(第五巻)
20 小林義誠文書 389 1 文化10年正月朔日 唐物荷物引当銀覚 389 21
祥雲寺
文書, 390 1 寛永14年2月 祥雲庵法度 390 2 寛永18年4月
祥雲寺
々僧中宛谷宗印書置
堺市史 第七巻
((一)南宗寺)
是れ卽ち
祥雲寺
である。,(海會禪寺由緖之略記、本菴諸末寺略傳寫、
祥雲寺
略記)斯くして海會寺は當寺内へ移轉後は同寺塔頭の一として
堺市史 第七巻
(目次)
・・・・・・・・六二八 (一〇)長慶寺・・・・・・・・六二九 (一一)少林寺・・・・・・・・六三〇 (一二)
祥雲寺
,・・・・・・・・七四五 (一)南宗寺・・・・・・・・七四五 (二)大阿彌陀經寺・・・・・・・・七五二 (三)
祥雲寺
堺市史続編 第六巻
([し])
1101 聖一国師 5-298 浄因寺(錦之町) 2-1107,5-52,54,72
祥雲寺
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