良佐(一に周佐に作る)諱は汝霖、遠江高國に生れ少壯出家し、偏く四方の講席に遊んで宗乘に通じ、【詩文に長ず】兼ねて詩文に長じて聲名があつた。【明國に入る】正平二十三年絶海中津と與に明に入り、蘇州承天寺の記室となり、尋いで五山の諸宿老と與に、鐘山に登つて大藏經を點校した。傍ら儒流に交つて詩文を硏き、翰林學士景濂は、良佐の文章を賞讚して、爲めに其終尾に跋を作つた。【堺に歸着す】天授二年絶海と共に歸朝するに當り、將軍足利義滿は使を堺に遣り、之を迎へて、法を普明國師春屋妙葩に嗣がしめた。同六年赤松義則の請に應じて播磨の法雲寺を開堂し、又是歳義滿京都に覺雄山寶幢寺を剏建し、春屋を請じて其開山とし、良佐は「命を請けて、其席に就いた。【寶幢寺二世】卽ち同寺の第二世である。後幾もなくして示寂した。(本朝高僧傳第三十七)