三好義繼は十河一存の子で、小字を熊丸と稱した。長慶に子養せられ、左京大夫に任ぜられ、相伴衆に列し、將軍義輝の妹を配せられた。斯くして長慶に代はつて飯盛に居城し、引き續き
松永久秀を執事とした。永祿八年將軍義輝、久秀等の專橫を惡んで之を除かんとするに當り、五月久秀及び三好長緣、政康、石成左通等は義繼を擁して京都に入り、【將軍義輝の殺害】二條邸を襲ふて義輝を弑した。是に於て政康、左通等は相議し義繼を高屋城に徙らしめ、足利義榮を阿波より迎へんとしたが、義榮疑懼して決せざる間に久秀は三好黨と隙を生じ、近畿亦大に亂るゝに至つた。永祿九年二月畠山高政は根來、和泉の兵と遠里小野に陣し、河内を侵略して久秀を助けた。【堺に於ける義繼の攻爭】義繼之を邀擊し、次いで一族と共に高政及び安見美作を堺に破つた。十年二月義繼は長緣等の專恣を憤り、堺北莊に走り、四月久秀と與に信貴城に據り、又多門城に徙つた。政康及び長緣等は之を追擊したが、義繼奈良に戰ふて之を郤けた。十一年正月義繼多門城から伏見の津田城に徙り、久秀と相議して密に款を將軍義昭及び信長に通じ、信長攝津平定の後、河内半國を與へられた。義繼乃ち若江城を治し、元龜元年久秀と茨木に相次した。既にして信長、義昭の不和に際しては、義繼は久秀と共に義昭を援けた爲めに、天正元年十一月信長の兵に若江城を攻められ、【義繼の戰死】老臣等の内通により遂に自刄した。玆に於て三好氏は滅亡したのである。
第六圖版 伊東義祐畫像