百姓善五郞は和泉墨村の人。生れて缺唇、長じて産を破り乞食となつて京に出で、東寺の廻廊の下に住んだが、南蠻寺に收容せられ、遂に宗門に歸し、名をジユモン(壽門)と稱した。爾來、もと加賀の禪僧で、之も南蠻寺に引取られて居る梅庵、告須蒙と共に布教に從事した。天正十三年越前に遁れ、四年の後堺に來り、【湊村に住す】居を東湊に卜し、名を島田清庵と變じて本道醫師となり診療に從事した。同十六年九月市橋庄助と共に、其南蠻寺の殘黨なることを看破せられ、捕へられて十六日磔刑に處せられた。(南蠻寺興廢記、切支丹宗門來朝實記)