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(六六)呉服屋安右衞門

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 【堺の人】呉服屋安右衞門は堺の人。始め富商であつたが、家道零落し、加ふるに瘡毒を患ひ、乞食となつて流浪の末京都に至り、大宮通東寺の廻廊の下に起臥した。既にして南蠻寺に收容せられ、療養を受け快復した。是に於て深く其恩惠に感じ、宗門に歸し、名をコスモ(告須蒙)と改めて、傳道に從事した。天正十三年の迫害に遠江に奔り、【戎之町中濱に住す】三年の後堺に歸つて居を蝦子町中濱に定め、名を市橋庄助と改め、外科醫となつて治療に從事した。(南蠻寺興廢記)同十六年九月の頃、堺の天王寺屋宗珍、油屋常祐の二人、伏見城に伺候した際、秀吉に告ぐるに、市橋庄助島田清庵の兩人が、奇術を弄することを以てした。(切支丹宗門來朝實記)秀吉乃ち兩人を召見して、其南蠻寺の殘黨なるべきを察し、捕へて之を粟田口に磔殺せしめた。時に同十六年九月十九日であつた。(南蠻寺興廢記)