半井宗洙は通仙院驢庵瑞策の弟で、堺半井家の中祖、室は春蘭軒明親の女菊である。明親才能を愛して、明國將來の銅製人形及び神農像を附與した。名聲京師に鳴り、建仁寺の繼天戩和尚より牧羊齋の號を授けられた。次いで、【堺開業名醫】其業を堺に開いた。(半井家系圖)一夕一老媼來つて其子の疾の爲めに投藥を求めた。宗洙狀を問ふに、媼低聲に告げて曰ふ吾が子盜僻あり、之を禁ずるも猶ほ止まず、今君の醫名を聞く、あはれ藥を給はりて、此惡僻を治するやうにとの依賴に、宗洙は暫く思案して、心得たりとて乃ち一方を與へた。媼は拜謝して辭し去つた。門人怪んで、病氣にもあらぬ者に、藥を與へ給ふは如何にと、其處方を問ふた。宗洙は汝等も皆稽古の爲めに考へ見よといはれたが、皆々思ひ及ばず、只管に請ひ問ふので、吾は燥肺の劑を投藥した、肺燥いて咳嗽が頻發すると、潛伏することが出來ない、之を久しくすると欲心自ら銷失するであらうと。衆其明に服した。(北憲瑣談卷三)天正十四年十一月九日卒去した。法號を海心宗洙居士といふ。(墓表)大通庵の墓地に其墓表がある。