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(一三〇)相泉

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 相泉は堺に住し、畫を周文に學び、殊に金碧を用ひて、【佛畫の妙手】彌陀像を畫くに巧みであつた。後高野山麓に歿した。(畫工便覽卷四、扶桑名工畫譜)丹青若木集には相泉坊の名を載せ、相泉坊は堺に住したとある。又扶桑名工畫譜には相泉及び相泉坊の二人の名が見えて居る。續本朝畫史の著者は、相泉相泉坊も同一人で、兩名に分れて呼ばれるやうになつたのではないかと、疑を存して居る。