【經歴】石野範至は始め八太夫、後筑後守と稱した。食祿千百石。(茅溟刺吏鑑)享保五年六月十四歳始めて將軍吉宗に見え、十二年九月小性組に列し、寬保二年十一月家督を相續、寶曆五年目付に代つて、美濃、尾張、伊勢等の河川工事を檢した。【堺奉行】次いで六年二月西城徒の頭となり、明和九年四月堺奉行に任命、七月從五位下筑前守に敍任、安永元年九月赴任した。(茅溟刺吏鑑)同六年七月朔日卒去、(手鑑、茅溟刺吏鑑には八日に作る (墓表))【墓所】王子飢に火葬し、少林寺に葬つた。(文化十年手鑑、茅溟刺吏鑑)享年七十一。(寬政重修諸家譜卷第四百六十八)墓表に實性院殿朝散太夫筑前刺史默翁悟大居士とある。