矢部定謙は通稱を彦五郞と云ひ、駿河守と稱した。【父の任地堺に居る】父定令寬政十二年より文化四年に至るまで、堺奉行在職の際(文化十年手鑑茅溟刺吏鑑)父に從ふて、其任地にあつた。【堺奉行】天保二年正月先手より堺奉行に轉じ、同四年七月大阪町奉行に進み、尋いで勘定奉行に轉じ、同十三年歿した。(史料稿本)
【情昧の裁斷】定謙堺奉行勤務中、眼科醫廣岡巴、曾て下婢に私して男子を生み、醜聲の外に漏れんことを恐れ、私に八百屋嘉兵衞の子とした。既にして其兒成長して、加藤勘十郞と稱し、片桐石見守に仕官した。然るに幾何くもなくして免黜せられ、且つ養父は既に三十餘年前に歿し、父の巴も亦歿して、他姓の子が後嗣となつてゐた。勘十郞巴方を訪ひ、先代巴の實子なるを告げ、哀を巴に乞ふたが、拒絶された。是に於て勘十郞は之を奉行所に出訴した。掛りの與力は和解を勸告したが共に應せず、是に於て定謙は、二人を公庭に引き、勘十郞に向つては、汝は今流離の身と雖、もとは一士人である、忠孝の道は辨へ居るであらう、之を公廳に訴ふるは、父名を恥しめるもの、又巴に對しては、汝は醫を以て業とするも和漢の書を讀み、又詩歌にも心を寄すると聞く、古歌に「なき名そと人にはいひて有ぬへし心のとはゝいかゝこたへん」とある。是は戀歌ではあるが、意義は同樣である、心が問はゞ何を以て之に對へんとするかと。二人感淚を流して訴訟を取下げ、巴は勘十郞に金二百兩を與へ、且つ別に家屋を新築して之に住ましめ、爾來親交したといふので、名裁判として今に其名を傳へられて居る。(堺の浦風)