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(三七)堀山充勝

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 堀山充勝初名は充春、後改名し、又權八郞と稱し、了々軒と號した。本姓倉橋氏、和五郞光之の弟である。兄光之夭死の後、堀山聖揆の後を嗣ぎ與力の職に就いた。【人と爲り】人と爲り廉潔、儉素自ら奉じ身を持すること儼厲、交るに私を以てせず、人と應接するに、褻服たりとも其意に先きだちて志を見るの明があつた。故に坐に一人の狎客を見なかつた。【意見の主張】忠勤精勵、事苟も政治に關しては、奉行と雖面を犯して自己の意見を開陳し、嘉謀あれば、之を奉行に獻策して、敢て之を己の功に歸せなかつた。【演武場の建設】嘗て演武場を西郊材木町濱に建設し、相與に武術を勵み、擧隊振武の風を興した。年少より體質、羸弱であつたがよく老齡を保ち、壽六十一歳遂に疾を以て致仕を乞ふた。【奉行の寵遇】奉行柴田日向守優寵官暇を與へて療養せしめんとしたが、聽かざるに及び之を許し、其子をして後を襲はしめた。【墓所】是に於て親族故舊を招いて盛宴を張り、其榮寵を喜んだが、宴竟つて病褥に臥し、弘化三年五月二十二日卒去、安養寺先塋の次に葬つた。法諱を勇道了々居士と諡した。(墓誌)