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(四二)吉川惟足

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 吉川惟足諱は元成、幼名は千代松丸、通稱は五郞左衞門、壯年に及んで惟足と稱し、後萩原兼從より其偏諱を得て從時と改めた。視吾堂湘山隱士等の號がある。【境に生る】元和二年二月二十八日堺に生れた。其先は佐々木秀義に出で、近江野洲郡吉川が其舊領地である。【家系】祖父廣末は、德川家康に隸して小田原の役に戰死した。【母の訪問】【神道の講說】【會津侯に出仕】此時父廣元堺にあり、壯年に及んで江戸に抵り、仕官を求めてならず病歿し、惟足町家に養はるゝに至つたが、既にして慶安四年七月鎌倉に隱栖して讀書し、翌五年堺に慈母の安否を訪ひ、刻苦して神書を吉田兼從に問ひ、終に印可を受け、明應三年には紀州侯德川賴宣に聘せられ神道の要を説き、寬文元年には會津侯正之に謁して政治の要道を説いた。【吉田家返傳授】其後寬文十二年正月勅命を奉じて返傳授の爲めに、京に上り、講筵には吉田拾遺以下諸國の神官等九十餘人列席した。【旗下】【墓所】延寶の末年俸米百苞を給せられ、元祿七年特に旗下に列し、同年十一月十六日享年八十歳を以て卒去、本所の野亭に葬られた。(吉川視吾堂傳記(日本教育史資料九、國學者傳記集成)【著書】主なる著書に日本學則、神祇要編、神代卷家傳聞書、神代卷惟足抄、鎌倉閑居記、神道大意註、神道大意講談等がある。(國學者傳記集成)