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第一編 人物誌
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第三章 爛熟期(大阪陣より明治維新迄)
(一二〇)竹中作右衞門
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竹中作右衞門
は堺
宿院
町濱の人、屋號を松屋と稱した。【新田開發の動機】櫻井、土橋等の新田築成の擧を見て埋立企業の念禁じ難きものがあつた。(三寶村誌)【
松屋新田
開發】時に大和川河口に蘆荻叢生して附洲を生じ、舟運を妨ぐるを以て、作右衞門は附洲の土砂を開發し、一には平田船の通路を開き、一には埋立をなさんとし、延享二年四月請地の許可を得、寶曆二年七月
松屋新田
の檢地を受けた。爾後數次更らに新開して現狀を爲すに至つた。現三寶村大字松屋卽ち之である。(三寶村誌)其歿年世壽は詳かでない。