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(一二四)吉兵衞

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 【新在家町の人】吉兵衞は堺新在家町中濱免屋太兵衞の子、正德五年十二歳の時、始めて寺地町青物問屋かねの四代前の主人九右衞門方へ奉公した。其頃九右衞門は南中之町で、借家住居のさゝやかな青物商人であつたが、間もなく病死した。【實直な働きぶり】然し吉兵衞は依然其子九右衞門に仕へ、長ずるに從ひ、朝は未明に家族が離床せぬ前、既に五六町もある所から、日用の井水を汲取り、夜は終業後も深更に及ぶまで飯米を舂き、薪を割る等、日夜徒手せず、赤心をこめて實直に働いた。【勤儉】主人
 
 よりは相應の給料を支給したが、吉兵衞は之を請取らず、又時々の衣類、襦袢、帶等に至るまで之を辭退して、其身は主人の古着を請受け着用した。【主家の興隆】而して亦、主人九右衞門の病弱により其三子を監督し、二十八歳に至りて多年の宿志を遂げ、問屋業を開き、其業次第に隆盛に赴いた。斯して九右衞門の嗣六三郞に妻帶せしめ、寺地町に住宅を、隣町に於て地所を購ひ、兩人の子女も相應のところに夫々婚嫁せしめた。【老年の忠勤】主人九右衞門及び親族等は、吉兵衞に相當の資本を給し、且妻をも娶らしめ別家させやうとしたが、固辭して受けず、七十歳に達するも、猶ほ壯年の時に異なることなく、商用市立て、其他家事の用務等に晝夜心身を勞した。こゝに於て強いて隣町に於て家屋を借受け、夜中は其所にて休養させ、且十五年間忠實に働いた下女さよを吉兵衞の看護として附置くこととした。吉兵衞、さよの兩人は、未明より主家に來り、夜に入つて歸宅するを例とした。又初夜頃には、必ず本宅を始め納屋に至るまで一巡し、二十年來始終一貫踰ることがなかつた。次いで主人九右衞門病歿後は、後家かね名義を以て營業を繼續したが、其女に聟養子を迎へ、九右衞門と改名せしめ、依然として
 
 忠實に事へたといふ。
 吉兵衞亦實家の兄に事ふること親の如く、近隣のものに交はるに懇切を旨とし、若年の頃から、年來貰ひ貯へた祝儀の金子三貫五百目は悉く之を主人に託した。【四代に歴任す】【義僕として表彰さる】斯くして四代に歷仕し、寬政六年九十歳の時、其忠誠公聞に達し、十月白銀二十枚を給與して、德行を表彰せられた。(泉刕堺吉兵衞行狀聞書)【行状聞書の上梓】此事豐田一載の筆に上り、泉刕堺吉兵衞行狀聞書と題し、寬政七年六月大阪農人橋一丁目の書肆本屋吉兵衞によつて上梓流布せられた。