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(一五三)少林安石

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 小林安石名は勝、通稱安石を以て字とした。【豐後日田の人】豐後日田の人、廣瀨淡窻に學び既にして四方に漫遊し、遂に堺に來つて宿屋町山の口に住し、醫を業とし(日間瑣事備忘)後九間町大道に移つた。(左海人名錄)嘉永二年の交、安石始めて牛痘種を得、接種を試みて醫名大に揚がつた。【堺に於ける牛痘接種の嚆矢】堺に於ける牛痘の接種は、之を以て嚆矢とする。【旭莊を迎ふ】廣瀨旭莊と親交があり、旭莊の來堺は主として其斡旋であつた。安石容貌魁梧、面長く、諸葛子瑜の風があつた。【性行】意氣軒昻、詩書を能くし、善く人の爲に盡した。曾て旭莊と與に、淡窻の著遠思樓詩鈔を校刻上梓した。平生酒を嗜み、人の短を奸くを喜び、直言して憚るところがなかつた。或時旭莊と共に篠崎小竹を訪ひ、大聲にて取次の者に曰ふ、此地に書を鬻いで活計とし、外面は儒者で、内實は商人たる、篠崎なるものは在宅かと。既にして小竹に會ひ、論難已まず、終に辭せずして家を出で、顧みて此翁語るに足らずと言つた。言行約ね此類であつた。【晩年】安石閨門修らず、晚年落魄し、遂に安政元年冬六十一歳を以て陋巷に窮死した。(日間瑣事備忘)