【經歷】小濱嘉隆は民部丞と稱した。大阪冬ノ陣、歳十五、德川秀忠の麾下に從ひ、又夏ノ陣にも從軍功あり、寬永九年八月船手となり、同十九年七月父光隆の後を繼いで大阪の船手となつた。嘉隆文武兩道に達し、殊に砲術に練達したが、子弟教習の爲めに、【堺七堂濱に射的場兵廠を建つ】堺七堂濱卽ち現今射擊場の舊跡附近に射的場及び兵廠を設立した。(放鳥銃定限記)【墓所】寬文四年三月二十三日享年六十五歳を以て歿し、攝津西成郡加島村の富光寺に葬つた。(寬政重修諸家譜卷第千七十九)
【後繼者】嘉隆の歿後は其弟で且つ高弟たる利隆によつて其業を承け、奬勵を怠らなかつた。利隆寬文六年九月八日享年六十歳を以て歿し、江戸淺草の東陽寺に葬つた。(寬政重修諸家譜卷第千七十九)