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(一六〇)高橋興勝

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 【父は青山侯の臣】高橋興勝幼名藤藏、父は前尼崎城主青山侯の臣で、興勝は其次男であつた。浪華東隊の街卒人見氏に養はれ、因つて其姓を冒し、名を十内と改めた。【東軍流の武術家】少壯劍を好み、東軍流を矢野某に學び、又古月齋を師として拳法を學び、皆其奧旨に達した。寶曆中事に坐して追放せられ、卽ち居を堺に卜し、姓を高橋に復して要人と稱した。【堺に教授す】家塾を開いて兒童に教へ、又劍及び拳法をも教へた。後赦されて大阪に歸つたが、門弟益々多く、其數千餘人、奧旨を得たもの七十餘人に達し、名聲を攝泉の間に轟かした。享和二年七月二十五日病歿、享年八十。【墓所】翌年正月門人等相謀つて、碑を堺旭蓮社(寺地町東三町)の境域に建てた。碑文は墨江靈松義讚の撰にかゝる。(高橋興勝碑銘)