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(一七六)田中信謹(さねもり)

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 田中信謹、字は子庸、初名は信恆又は信敬、通稱は忠七、魯軒と號し、後見龍と改め、醫名を常淑と稱した。【西宮の人】西宮の人で、始め若林氏、後田中と改姓した。【經歷】元祿十二年七月信繁の二男に生れ、幼より學を好み十一歳大阪の藥鋪小西氏の徒弟となつた。後一旦他家を嗣いだが、二十一歳生家に還り、灘地方に紙を行商し、傍ら住吉村の井上升齋(篤行)に師事した。【廣西兩宮記脱稿】其間受業の門人を得、又享保十二年には廣西兩宮記を脱稿した。同書は廣田、西宮兩社に關する信謹已前に行はれた諸説を擧げ、自己の新案を下したもので、其引用書目に博洽の一斑を知ることが出來る。翌十三年二月より、同志の爲めに小學等を講じ、從來の子學を轉じて、復古學を唱へるやうになつた。【堺兩替町に移住す】爾後、保建大記及び經史雜書を講説し、寶曆四年には、堺に移らんとの志があつたが高次喜右衞門(敬愛)強ひて之を鳴尾村に迎ふるに及び中止し、後同六年九月遂に堺兩替町(現宿屋町山の口)に移住した。爾來暇ある每に自著を訂正し、且泉界志補や自譜年表をも起稿したらしく思はれる。明和五年二月宿屋町に轉居、安永六年七十九歳の時、季弟愛道の子經義の所生伴次郞を養ふて嗣子とした。【西の宮に還る】斯くして屢々海路堺と西宮との間を往來し、知友と舊交を溫め、九年四月に至つて伴次郞を携へて西宮に歸り、人を介して之を經義に還さしめた。【墓所】爾來蕭條たる晚年を送り、天明元年十一月九日享年八十三歳を以て、姊の緣家で、尼崎藩士岩崎正能の長子たる、西宮の岩崎質好の邸に歿し、同地馬場町西蓮寺に葬つた。法諡を見龍院本譽仲庸元信居士といふ。
 【著書】著書に廣西兩宮記、文業興廢錄、家譜、〓〓居士行狀艸、感傷中字解、天璽説、惹來鈔説、紘樂集説、祝壽方考、保家説、泉界志補、俗醫問答、醫按兼治法問答、視聽漫筆、自譜年表、釋門原始、三國諸拜説等がある。寶曆八年、享保から寶曆前後までに著述した文艸彫蟲伎稿三卷及び詩稿一卷は悉く之を廢棄した。(廣西兩宮記