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(一八〇)河野鳳渚

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 河野鳳渚諱は晉、字は麗明、鳳渚又は進齋と號した。寶曆十二年十月出生し、幼名文吉、後利右衞門左門と改めた。【家系】父を英信と云ひ、其先河野休故は周防岩國の人で、吉川監物の家臣であつたが、慶安の頃故あつて堺に徙り、眼科醫を業とし、傍ら丸散合藥を鬻いだ。(河野氏家譜)【師友】鳳渚幼にして父を喪ひ、母に事へて至孝、(進齋先生碑銘)早くより學を好み、鄕の先人(高志羪浩の門弟)萬代文軌に就き、後皆川淇園に從ひ、學業大に進んだ。(進齋先生碑銘、皆川淇園書牘、沙界人名錄)其友京都の儒者田中大藏著書世説講義を贈つて批評を請うた如き、威敬せられた一斑を知られる。(田中大藏書牘)【後進の誘掖】既にして歸鄕して經學を講じ、善く後進の士を誘掖した。(進齋先生碑銘)古家魯嶽、同魯山の如き皆其門に出でた。(門下生草稿)然し眼科の治療は一日も之を廢せず、其術益々精しく、方書若干を著はして之を子孫に貽した。【墓所】文化九年五月二十一日卒去、享年五十一、正法寺(現中之町東三丁)先人の墓側に葬つた。(進齋先生碑銘)【遺稿】文稿頗る多き中に、釣餘編は其主なるもので、孟子鑽は撰述の業半ばにして止み、大成を見るに至らなかつた。(遺稿)【墓碑の撰書】墓碑銘は盟友羽後淨福寺の住僧釋公巖の撰述に係つてゐる。