益田睢軒名は豐卿、字は孟文、本姓は高木氏、睢軒と號した。(在津紀事)【具足屋次兵衞】通稱を具足屋次兵衞といひ、其第十二代で、妻は大阪天王寺屋五兵衞の女、娘かゑは同地の住友尚元に嫁した。【惣年寄役】【絲年寄役】次兵衞は惣年寄役及び絲年寄役を勤めた。(高木家譜略)性眞率絲年寄役を以て屢々長崎に赴き、畫を熊代熊斐に學び、又趙陶齋に從ひ、詩書共に風韻があつた。【趙陶齋を堺に迎ふ】賴春水と交りを善くし、(在津紀事)明和七年陶齋を別墅に迎へて之に住せしめ、(趙陶齋記文)師弟の交誼頗る篤かつた。(陶齋書翰)【交友】春水十九歳の時、始めて次兵衞によつて陶齋に紹介せられたのは、彼の書齋聚星軒であつた。(在津紀事)寬政十年十月十八日享年六十七歳を以て歿した。法號を釋宗兼といふ。(高木家譜略)【墓所】西然寺に其墓碑がある。