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(二一四)春山士蘭

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 士蘭字は春山、俗姓は永石氏。【佐賀の人】肥前佐賀の人、生れて頴悟、十八歳にして父母に乞ふて出家し、天德寺(現佐賀縣佐賀單郡點合町)道提公の弟子となり、游方して四方の叢林名器を訪ひ、足跡殆んど天下に遍ねかつた。【東福寺の東堂】後京都東福寺の龍潭心桓に見え、自ら其東堂に陞つた。【大安寺の住職となる】偶々當時堺の名刹たる大安寺に住侶なく、清衆及び諸檀徒等禮幣を厚うして住山を請ふに及び入寺し、次いで肥前の人江西士蜀をして其席を繼がしめ、躬らは別院に徙つた。【和歌を中院通躬等に學ぶ】春山容貌雄偉、辯舌に慧しく、宗義を弘通するを以て己が任とした。和歌を鄕人聽松菴山口昌椿(通稱新也)に學び、昌椿歿後上京して教を中院通躬及び武者小路家に受け百花菴と號した。詞藻豐富、而も禪味あり、名聲高く、從學の徒一千有餘人に達した。【門下の逸材】然も本領は、和歌に非ずして道に在り、門下中、堺の栗山滿光、藤本茂啓、青木宣安、京都の花葉正鯤、吉益爲則、浪華の井關灼美等は、和歌の神髓に通じ參禪して印證を受けた者である。寶曆六年八月微恙に罹り、九日怡然として示寂した世壽六十二歳。【著書】著書に春山集がある。【墓所】寺隅に葬り、建塔した。碑文は親交ある西肥の人、元皓大潮の撰で、門人青木宣安之を書いてゐる。(春山禪師墓碣銘)

第六十八圖版 春山和歌短冊