ビューア該当ページ

(二四六)南 方由

382 ~ 383 / 897ページ
 【堺の人】南方由通稱は元順、堺の人、醫を以て業とした。【堺天神に編笠置十萬句附合を催す】寬文年間堺天神社前で、始めて編笠置俳諧十萬句附合を催した。又江戸龜戸天神社前でも開筵したが、之は其後の事であらう。【著書】著書に寬悟集二日千句等がある。【西山宗因の門人】始め談林の風を西山宗因に學んだ。(誹家大系圖下之卷)【宗因方由を訪ふ】【正風に歸す】宗因は堺に方由を訪ひ、又京の花見に同行したり、其母の歿するや、「來迎の蓮のはゝそひ行方かな」と追悼の句を寄せたりして、師弟の惜誼頗る濃かなるものがあつたが、(松翁宗因句集)晚年正風に歸した。歿年世壽は明かでない。元祿二年尾張の俳人、橿木堂荷兮の撰んだ荒野集に辭世の吟を收めてゐる。【辭世】辭世「南無や空たゞ有明のほとゝぎす」。(誹家大系圖)