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(三〇一)薩摩淨雲

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 薩摩淨雲幼名は源太郞、【虎屋次郞右衞門】通稱を虎屋次郞右衞門と稱し、後薩摩太夫と改め、入道して淨雲と號した。世間では次郞右衞門入道と云つた。文祿四年出生、【父祖】其祖を淨見、父を淨慶と云ひ、淨見水無瀨流の琵琶を岩橋撿校に學び、平語を語るに長じ、一流を立てゝ堺に居つた。其子淨慶業を嗣ぎ、薩摩掾を受領し、攝津西宮の傀儡師に就き、操人物を工夫して之を興行した。淨雲は三絃の曲節を澤住撿校に學び、淨瑠璃姫の院本に薩摩一流の曲節を附して語り、又澤住をして文句の切々に、後には節にも、合せて三絃に上ぼさしめた。(大薩摩杵屋系譜)【江戸に下る】寬永の初め江戸に下り、多くの新曲を作つた。(江戸節根元記、奈良柴)淨瑠璃は主として北條宮内の作になつたものと云はれて居る。【操興行を始む】斯して中橋廣小路に操興行を創めて好評を得、(事跡合考、增補江戸名所咄)【薩州侯其能を賞す】薩摩侯も在京に際し散策の途次之を看て頗る興に入り、居館に招いて其技を演ぜしめた。此時曾我物語を演じて紋盡しに、御家の御紋と語りて太く賞せられた。薩州侯召演の噂は忽ち市中に喧傳せられ、人氣いよ〳〵高く、丸に十字の紋打つたる絹幕を鼠木戸の上に引廻した壯麗振は時人の眼を驚かした。然も事幕府の忌諱に觸れて、禁獄の厄に遭つた。(事跡合考、玉露叢)之は寬永十二年の出來事であつた。(武江年表)歿年は明かでない。大薩摩杵屋系譜には寬文十二年四月三日七十八歳歿したと見える。【淨雲の子】淨雲の子薩摩次郞右衞門亦よく父の後を嗣いだ。【四天王】又門下の丹後太夫、丹波太夫、源太夫、長門太夫等何れも虎屋と稱して世に四天王と稱せられた。(本朝世事談綺、竹豐故事、聲曲類纂)其他猶ほ門下には多士濟々で、江戸淨瑠璃の勃興時代に當りて其流派を語るものが頗る多かつた。(義太夫大鑑)