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(三〇五)四代目 竹本春太夫

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 【堺の人】竹本春太夫は堺の人、【桝屋又兵衞】通稱桝屋又兵衞、【三代春太夫の門弟】(林昌寺の過去帳には河内屋又兵衞とある)三代春太夫の門弟で、もと町太夫と稱した。【四代春太夫】文政の初年師匠春太夫は、其太夫名を高弟町太夫に讓つた。【五代政太夫の門弟となる】師匠の歿後は重太夫事五代政太夫の門弟となつた。【春太夫の名讓與の經緯】多病で戎之町西六間筋の自宅に退隱したが文政八年當時名人の聞こえがあつた竹本播磨太掾が、江戸から咲太夫の門弟八十太夫を伴ひ歸り、己の門弟とし、大阪の芝居へ出勤さすに付ては、適當なよき名前を名乘らせやうと、四代春太夫に交涉し、堺で興行する場合には春太夫の名を用ひないことを條件とし、春太夫の名を假りに八十太夫へ貸し與へたが、八十太夫は間もなく死亡したから、春太夫の名稱は元の又兵衞に復歸した。然るに春太夫は四代竹本氏太夫の門弟文字太夫を養子とし、【名跡を文字太夫に讓る】名跡を讓り(淨瑠璃大系圖卷之八、竹本攝津大掾)隱退して春樂と號し、文久二年十月二十五日八十五歳の高齡を以て歿した。(淨瑠璃大系圖卷之八)法名を顯融淨通信士(林昌寺過去帳による)といふ。【墓所】墓碑は柳之町東三丁林昌寺にあり、五代春太夫の建てたものである。