【堺の人】豐竹此太夫は堺の人で、通稱重太郞、大阪に出で、長堀橋筋一丁目鱣谷に旅宿業を始め、太平と稱した。寬政初年、【豐竹磯太夫の門弟】豐竹磯太夫の門に入り、同十一年七月道頓堀若太夫座に繪本太閤記新作物の五ッ目の口と、杉の森の瓜獻上の段とを語つた。享和元年江戸に下り、同二年歸阪して各座に出勤し、文化三年二月北堀江市の側の芝居で、けいせい北國曙打出の濱の段、比良ヶ嶽の段及び長濱の段を語つた。同七年五月北新地にかけ合で敵討優曇華龜山序中と金谷宿の口、赤堀屋鋪の口花壇の段を、同八月大西座で、三日太平記序切中と安土の段、同十月太功記五ッ目の口、七ッ目の口瓜獻上、同八年五月若太夫座に、前代記唐崎の段、切に天網島茶屋の段の口を勤めた。其他各所の興行に出勤し、文政元年正月北堀江市の側で、新薄雪物語詮義の段、次に中將姫三の中を勤め、是より江戸に下つた。同三年正月博勞町稻荷社内に、妹脊山婦女庭訓、序中切を勤め、【豐竹時太夫】此時豐竹時太夫と改名した。改名披露として、壽連理の松湊町の殿を語つた。四月同處で、双蝶々曲輪日記八幡の段、切に本朝二十四孝鐵砲渡しの段を勤め、退座して、各地を巡業した。六年四月御靈社内の芝居に、本朝二十四孝二段目の切と、三の中を語つた。七月前大塔宮、次に勳功記三の中、切に極彩色增井の段を語り、【豐竹此太夫】豐竹此太夫と改名し、此名で長崎に渡り、文政十年、贔屓客から贈られた、多數の幕、幟等を齎らして歸阪し、七月御靈の芝居で、此太夫の名を以て、前近江源氏花賣の段、切に戀八掛柱曆大經師内の段を語り、三味線は咲治改め鶴澤市太郞が彈いた。八月前白石噺逆井村、切に戀緋鹿子八百屋の段を語り、【最終の出演】九月前奧州安達原二段目の切を最終の語物として隱退した。天保八年の頃には病氣であつたが、其後の事蹟は明かでない。(淨瑠璃大系圖卷之八)